1631年(寛永8)、4月城下を焼きつくし、城内の殿閣も焼け落す大火「法船寺焼」が発生し前田利常は金沢城を修築をしいられ、これがきっかけとなっていわゆる「寛永の危機」とよばれる幕府との緊張した関係が生まれました。辰巳用水は、この「寛永の危機」の直後の1632年(寛永9)、小松の商人板屋兵四郎により、わずか1年足らずで完成したと伝えられています。
兼六園
にさしかかると、直前でまず西外惣構堀(にしそとそうがまえぼり)へ向う分水が護国神社方向に向います。表に出ていた辰巳用水とは別に、地下管を通して送られてきた流れは園地に入った途端、表に現れます。園地の南の山崎山の下をトンネルでくぐると千歳台の曲水となって幾筋にも分れながら、多くは霞ケ池に集り、霞ヶ池からまた幾筋にも分れながら、幕末に作られ日本最古といわれる噴水等に回りつつ最終的には瓢池に辿りつきます。ここから、今も清らかな水を涌き出している金城霊沢(金沢神社に隣接)の水と一緒になって、辰巳用水は広坂通りを下り、
尾山神社
に向い西内惣構堀に入るのです。
霞ヶ池は徽軫(ことじ)灯篭のある有名な池ですが、「水落とし」と呼ばれる仕掛けがあり、いざという時には霞ケ池の水を抜き、百間堀の水位を上げることができるようにしていました。