いつどうやって開削されたかは明確ではありませんが、天正年間(1573〜91年)利長の家臣富永佐太郎によって完成したと伝えられています。中世の集落の単位である名前である庄の名前がついていて、金沢で最も古い用水になります。
金沢城の築城に大きな役割を果たした用水です。
金沢城を作るための木材等(御荷)を宮腰港(今の金沢港)から木曳川で曳き上げ、御荷川と呼ばれた大野庄用水に入り最後は木倉町で荷揚げをし、藩の材木蔵に貯えたということです。また、城下町の景観を構成する要素としても重要で、
長町武家屋敷
の側を流れている用水と言えば誰もがわかるでしょう。
大野庄用水は犀川大橋のすぐ下手の右岸に取入れの水門があります。余水を 犀川 へ出している時など は、犀川大橋の上からも眺められる位の近さです。もっとも、犀川の河底を堀り下げた関係で、現在はもっと上流部で取水し河川敷の下を通してきて、もとの水門から用水を引き入れています。
流れ 水量も豊富であり、またかなりの勾配もあることから、繁華街の中をダイナミックに走り抜けています。片町の北側で犀川側を歩くと、迫力のある大野庄用水の流れが所々に見えます。
中央通りを斜めに渡ると、かって木倉町があった所に向う道に御荷川橋がかかっています。この橋の少し手前に少し落差があり、大きな音を立てて水が落ちています。
長町の武家屋敷が立ち並ぶあたりでは、大野庄の用水の水を曲水として自宅の庭園を巡られた後、用水に戻すといった昔ながらの邸宅を通り、中央小学校の周りまで北上し、その後北西にそれるようにして三社方向に向っています。
昭和大通りを越える地点で、大きな水門によって流れが二つに分けられる。この地点を「三社水閘(どんど)」あるいは堰による分流の音にちなみ「百々女来(どどめき)」と呼ばれ、ここに架かる橋を百々女来橋と呼んでいたようです。
JR北陸本線を越えて、中橋町で鞍月用水の分水と合流し、すぐまた二手に分れて北側は樋俣用水として、南側は木曳川として北西に向っています。