かつて暴れ川として有名だった 犀川 は、藩政の初期の頃は現在の片町近辺まで河原が広がる大きな川で、流れは二筋に分かれていましたが、犀川の改修時に流れを一つにまとめ、中州を埋め立てて町地としてきました。こうした犀川改修が度重なることから、鞍月用水がいつ作られたかはっきりませんが、正保年間(1644〜48年)、竪町にある多田油店の先祖である油屋源兵衛の書上に現れるのが初めてで、菜種油を取るために犀川に堰を設け、水量を豊富にした鞍月用水を作り、油車で水車を回したようです。油車の用水脇の石柱にもその旨記されています。

取入口
 金沢市の犀川上菊橋上流400m余り、城南2丁目の油瀬木で取水しています。

流れ
 城南を過ぎ、菊川町に入ると開渠となり家々の庭の間を通り抜け、幸町、鱗町と流れ、柿木畠の教会横に来た用水は、ポケットパーク前で開渠となって西外惣構掘と合流し、香林坊交差点を越え、香林坊109でまた現れます。かつては二筋に分かれていましたが、金沢駅方向に専光寺を通り北上する水路はなくなり、もう一筋は六枚交差点を越えて、駅周辺及び駅西を暗渠となり幾筋にも分かれて北上します。昭和町地内で区画整理中に江戸時代の鞍月用水の石垣が出てきました。意外と狭い水路ですが石組みはしっかりとしてるそうです。西念町の北部、金沢念法寺周辺で開渠となって北上し、かつての鞍月庄(現在の南新保、近岡、直江付近)へ向かいます。



鞍月用水(00'45")

中央小学校から金沢東急ホテルの裏にある鞍月用水では工事のため流れは見られませんでしたが、柿木畠から里見町あたりではこの用水の豊富な流れが見られます。
静かな住宅地の間を流れているため、水の音や鳥の鳴き声が響いています。

<柿木畠付近>
特徴
 鞍月用水は、市内の繁華街を通っており我々の目によくふれます。また、駅西方面では重要な農業用水です。明治に入ってからは油絞りは消えたものの、用水に製米、製粉用の水車を設けるものが増えました。また用水の水は染め物にも好適だったようです。その後も、鞍月用水による水力は近代工業に利用されました。1894年(明治27)、金沢撚糸会社で木綿用の織機を水力で動かし、1900年(明治33)、津田米二郎は津田式力機械を完成させ金沢市の羽二重生産が急増しのです。


参考資料
1るるぶ石川 JTB (1998)

金沢の用水

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