コラム KAZU'S VIEW

2011年06月

孫子の兵法の影に3人の女性あり

中国歴史大河ドラマ「孫子《兵法》大伝」という番組を偶然見つけた。たまたま、留守録のビデオをチェックしていたら「孫子の兵法」と言う文字が目に入った。孫子とは今から2500年ほど前の中国の春秋戦国時代の戦略家、孫武(ソンブ)が残した書物とされる。ドラマはその作成過程を中心に、当時の時代背景、人間関係を描いていた。時の中国は群雄割拠した春秋時代(紀元全770年〜403年)であり、その後の戦国七雄(センゴクシチユウ)を中心とした戦国時代への移行期であった。中国における兵法の代表的古典には武経七書(ブケイシチショ)と言われる孫子(ソンシ)、呉子(ゴシ)、尉繚子(ウツリョウシ)、六韜(リクトウ)、三略(サンリャク)、司馬法(シバホウ)、李衛公問対(リエイコウモンタイ)の7つがある(wikipedia)。この中で孫子はそれまでの兵法が専門的経験者達の暗黙知的ノウハウ書的性格の強いものであったったものに対し、戦史事例に基づく戦勝、戦敗原因の分析結果を形式知化した政略、戦略論であり、普遍性が高いことが大きな特徴とされている。後に、諸葛孔明、武田信玄、東郷平八郎、ナポレオン・ボナパルトなどがその影響を受けたとされ、ビジネス戦略にも多く引用されている。 このドラマの主人公は孫子の著者とされる孫武(ソンブ)で、その戦略思想は「百戦百勝は善の善なる者にあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり(戦って必ず勝つということより、戦わずに敵を屈服させることこそ、最善の方策である。)」とされる(http://maneuver.s16.xrea.com/cn/sonshi1.html)。孫武は故郷の斉(セイ)の国を追われ、呉(ゴ)の国に移り住む。そして第6代王闔閭(コウリョ)と第7代夫差(フサ)親子に仕えて自らの兵法を実践を通じて検証、改善していく。呉のライバルは越(エツ)と礎(ソ)の国であり、呉の闔閭・夫差親子対越王の允常(インジョウ)と勾践(コウセン)親子を中心に、彼らに仕える呉の伍子胥(ゴシショ)・孫武対越の范蠡(ハンレイ)の構図となる。この2国間の親子2代にわたる争いは、越の勾践が呉を紀元前473年に滅亡させることで終結するが、一方で「復讐」を目的として耐え忍ぶ心の象徴である臥薪嘗胆(ガシンショウタン)の故事を生み出している。その後、越は楚に紀元前334年に滅ぼされた。そして、楚は秦(シン)により紀元前223年に滅亡し、秦の始皇帝が紀元前221年中国を統一するが、紀元前206年に劉 邦(リュウホウ)により前漢が建国されることで秦は滅亡となる。このような紀元前の歴史の中で、最も殺伐とした時代を背景に、孫武(紀元前535年頃〜没年不詳)、孔子(紀元前551〜479年)や老子(出生、没年不詳であるが孔子が師事したとの記録もあり同時期に活動したと推察される)が輩出され、いわゆる諸子百家(ショシヒャッカ)と言われる多数の学者や学派が生まれている。ドラマでは孫武には帛女(ハクジョ)と?羅(イラ)という2人の婦人がおり、?羅は姉を孫武に殺されたことになっている。また、孫武の息子の孫馳(ソンチ)は戦死している。ドラマには楚の昭王(ショウオウ:在位は紀元前515年〜489年)の姉の霊エツ公主が登場するが、彼女は孫子を読み解き、孫武が礎との戦いで礎の大将軍申包胥(シンホウショ)と戦い、瀕死の重傷を負った時に命を助け、その後、孫武と対立し、その戦いの中で息子を失うというストリーが織り込まれている。 春秋時代という名前は一見美しいイメージを受けるが、骨肉相食む(コツニクアイハム)殺戮の中に諸子百家(ショシヒャッカ)という学者や学派が生まれた混沌の時代であったのではないか。中庸(チュウヨウ)の孔子、無為自然(ムイシゼン)の老子に対する孫武のキャラクターの魅力は、彼を取り巻く3人の女性である。それは、帛女、?羅(イラ)そして霊エツ公主である。ドラマで見る限り、帛女はいわゆる女将さんタイプ、?羅(イラ)と霊エツは才女タイプである。彼女らの影響を孫武は受けて孫子を完成させたように思う。「戦わずに敵を屈服させることこそ、最善の方策である。」というメッセージは王道を意味し、また、「戦って必ず勝つ」は覇道を意味する。これは前者が未然防止、後者が事後復旧というリスクマネジメントに通じている。つまり、戦いの回避に最善の努力をし、やむを得ない戦いについては戦勝に最善の努力をする。この優先順位は女性的な印象を受ける。孫子の兵法は彼女らを抜きには語れないのではないか。改めて、3月の東日本大震災に伴う福島原発事故に孫子の兵法を用いれなかったのか、を考えてみる必要を感じた。その時の「彼(カ)を知り己を知らば、百戦殆(アヤウ)からず。」の彼は自然となるのであろうか。

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