コラム KAZU'S VIEW

2010年11月

平城京遷都から1300年の歴史に見る日本国のルーツ

「大仏開眼(ダイブツカイガン)」というテレビドラマの再放送を見た。奈良の大仏建立の大事業が行われた8世紀の「日本」で、国家としてのかたちが出来上がっていった時代を生きた人々、すなわち、吉備真備(キビノマキビ)、阿倍内親王(日本史上唯一の女性皇太子)で後の孝謙天皇)、藤原仲麻呂(ヒジワラノナカマロ)、玄掘淵殴鵐椒Α法∪刺霤傾弔箸い辰親本の古代史を彩る面々の物語である。
ストーリーとしては主人公の吉備真備を中心に展開するが、それを取り巻く人物として阿倍内親王という人物に関心を惹かれた。この人物は第46代孝謙天皇(コウケンテンノウ)であり、第48代称徳天皇(ショウトクテンノウ)でもある。すなわち、2回(749〜758年、764〜770年)天皇になった重祚(チョウソ)の経験を持つ女性である。日本史上、推古天皇(第33代天皇で在位は592?628年)から数えて6番目の女帝で、父親は聖武天皇である。重祚(チョウソ)を行った天皇は2010年1月のコラムで取り上げた第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)がいる。孝謙天皇の死によって斉明天皇・天智天皇・天武天皇の流れは終焉する。彼女は西大寺八角七重塔という巨大建造物を建設したと言われている。この建物のイメージは中国の唐時代につくられた洛陽にある明堂(現存する高さ90m、3層の建築物)からCG化されていたが壮大な建造物であったことが想像される。 ところで、洛陽にある明堂は則天武后(ソクテンブコウ、中国では武則天))が造ったとされる。彼女は中国史上、唯一の女帝とされ、武周朝(690〜705在位)を興した。彼女は漢代の呂后、清代の西太后とともに「中国三大悪女」の一人に数えられる。彼女の業績を見ると、660年には新羅の依頼により百済討伐の軍を起こし、滅ぼしたのち、日本・百済連合軍と白村江の戦いに勝利し、さらにその5年後には高句麗を滅ぼした。また。彼女はそれまで道教を重んじていた風潮を仏教に変え、「仏先道後」とし、諸寺の造営、寄進を盛んに行った。これは我が国の国分寺制度の元になったとされる。また、洛陽郊外の龍門山奉先寺にある高さ17mの盧舎那仏の石像は、夫である唐の第3代皇帝の高宗(コウソウ:在位649〜683年)の発願で造営されたが、像の容貌は武則天をモデルにしたといわれており、東大寺大仏の手本となったとされる。孝謙天皇はこの武則天を敬愛していたといわれている。 孝謙天皇の時代より約100年遡って、場所を朝鮮半島に向けると新羅の第27代王(632〜647年在位)善徳女王(ソンドクジョウオウ)がいる。この女王は新羅初の女王でありその在位期間は斉明天皇と重なる。この女王の存在は韓流ドラマの「善徳女王」で興味を持った。このドラマはキム・ヨンヒョンの脚本によるものである。彼女の手がけた代表作にはチャングム(2005年9月と11月のコラム参照)があるが、善徳女王では「三韓一統」を旗印に朝鮮半島の統一を願い、統治を行うまでの波乱万丈を描いていた。彼女の夢はその死(647年)後、第28代真徳女王(チンドクジョウオウ、善徳女王の妹あるいは従姉妹とされている)、第29代武烈王(ムヨルワン、幼名をチュンチュ、善徳女王の双子の姉妹の姉に当たる天明(チョンミョン)王女の息子)を経て、第30代文武王(ブンブオウ)の時、668年の高句麗滅亡で実現する。これには武則天も関わっている。 今から1300年前の東アジア、つまり西暦7〜8世紀にかけての日・中・韓を眺めて見ると、中国では1人、韓国では3人(いずれも新羅、3人目は9世紀に即位した第51代眞聖女王)、日本では8人(内2名が2回即位)が女帝となっている。つまり、中国から東に進むにつれてその数が1→3→8と指数的に増えている。また、その歴史的な流れは推古天皇、善徳女王(斉明天皇とほぼ同時期)、則天武后、孝謙天皇となり、日本→韓国→中国→日本という流れが読みとれる。特に、7〜8世紀の日本の歴代天皇を見ると、第33代推古天皇(在位592-628年)から第48第称天皇(在位764〜770)に渡る16代の天皇中、女帝が8代(この中には2名の重祚経験者が含まれる)、半数を占めている。これら東アジアの女帝の評価を見ると、唯一の女帝を中国では3大悪女の1人としているが、韓国の3大悪女(チョン・ナンジョン(鄭蘭貞)、チャン・ノスク(張緑樹)とチャン・ヒビン(張禧嬪)、2010年2月コラム参照)、日本の3大悪女(北条政子、日野富子、淀殿(または瀬名:徳川家康の正妻築山殿とする説もある)とは明らかに異なる。 1300年前の日本を考えると大仏開眼などに見られる国家的大事業の背景には、東アジアで日中韓が国家として体制を整え、国家間のパワーバランスを図る必要性が生じていたと考えられる。この時期にいずれの国でも女性が大きな役割を果たし、しかも相互啓発をしていた形跡も見られる。その後、13世紀の元寇までは東アジアのバランスが保たれていたことは、ここ200年ほどの間に生じた東アジアの問題の多くは女性の手によって解決される可能性が男の手によるよりかなり高いことを示唆しているように思われる。大仏の周りの小さな人間が全て男に見えてくるような寂しさを感じる。

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