コラム KAZU'S VIEW

2010年09月

50代最後の誕生日を迎えて思うこと

8月8日に50代最後の誕生日を迎えた。来年、還暦を迎えるに当たり、これまでのこと、これからのことをふと思う時間が持てた。これまでの人生で、8月8日を誕生日に持つ人間を私は2人しか知らない。1人は大学時代のクラスメイト、もう一人はそのクラスメイトから教えてもらった、ピーターこと池畑慎之介さんである。そんなことを思いつつこのコラムを書き始めた。
これまでの人生を振り返ると、私は30代になるまでに3回、死と直面したことがあった。正しくはあったらしいと言うべきであろう。その体験を意識の上で明確に記憶していないからである。まず最初はこの世に生まれる前の時点。つまり、母親のお腹の中にいた時であったらしい。母親から直接聞いた話である。私は両親が年取ってから生まれた、いわゆる「恥かきっ子」であった。当時、私の母親は世間体からお腹の子私を堕胎することを考え、医者に相談したという。その時、母は医者から、私を生むように諭された。この話を直接母親から聞いた時はショックだったが、その後はかえって感謝する気持ちになった。
2回目の体験は小学校入学前後の頃であったと記憶する。私の生家は道路脇に立てられており、路面から1.5メートルほど上に建物の敷地があり、その地盤から1メートルほどの塀が建物を囲んでいた。道路と塀の間には幅30センチほどのコンクリートの側溝があった。従って、塀の上から側溝の底までの落差は2.5メートル程になる。ある夏の暑い日に、家の塀の上で横になり、涼をとっていた。この塀は厚みが30センチほどある石造りのもので、 子供が1人、その上で横になっても十分体が収まる幅であった。その塀の上から2.5メートルほど下にある側溝に過って落ちてしまった。側溝には夏には渇水のため、通常水は流れていないが、この時はたまたま水が流れており、しかも水止めが側溝に設置されていたため、底から30センチほど側溝に水が溜まっていた。私の体は、丁度溜まった水の上に落ちたため、水がクッション代わりをして、コンクリートの底に直接体を打ち付けるという災難を回避でき、命拾いをした。
3回目は、それから大分時間が経過して大学院の修士課程を修了した時だった。当時、十二指腸潰瘍を患い、通院をしていた時、担当医から今後毎日沢山の薬を飲むか、外科手術をして薬治療を無くすか、どちらを選ぶように言われた。毎日腹一杯の薬を飲むのはさすがに気後れし、手術することを簡単に決めた。診断を受けた医師の紹介で近くの医療センター(昔の陸軍病院だったらしい)に行くと、手術は何時にするかと聞かれ、ちょうど夏休みだったので自分の誕生日の8月8日決め、帰省して母親に話すと、その日だけは止めて欲しいと強く言われた。理由も分からず、東京に帰り、病院を訪ね手術の日程を変更してもらった。誕生日に手術はタブーであったのか。8月に入り、早々に入院し、色々な検査をした。やがて、手術の日が来た。麻酔の検査を散々したにもかかわらず、術後3日間意識が戻らず、かなり危険な状況であったと、その間ずっと付き添っていてくれた母親から聞いて驚いた。記憶はないが、多分、死生をさ迷ったのであろう。
以上のように、これまでに3回ほど生死の狭間を行き来したことの経験をある先輩との会話で話すと、その方も同じような経験をされたそうだが、かなり苦しい、大変な経験だったと話されていた。そとに比べると、私の経験なお釈迦様(釈迦如来)の手の平の上の孫悟空のようなものに思えた。しかし、私のこれまでの人生を振り返ると、何かに生かされ続けているような気がする。今は、両親ともこの世にいないが、今まで以上に両親を身近に感じる。このようにしたら両親はなんと言うだろう。そんな、心の会話ができる今の自分があることに対し、母親への敬慕の念と女性としての魅力性を思う心を禁じえない。マザコンそのものを素直に受け入れられる自分に驚く。このようなことを外聞も気にせず書ける自分の姿に内心驚く。齢を重ねられたことに感謝し、これから第二の成人式を迎えるための心の準備に取りかかりたい。

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