コラム KAZU'S VIEW

2010年06月

ジャパニメーションにみる世界価値創造の可能性

たまたま、テレビ番組を見ていたら、アメリカ版のドラゴンボールの番組をやっていた。懐かしさとアメリカ人がどのようにドラゴンボールを描くのかに関心を持ち、見入ってしまった。「気」や「間」と言った日本人独特の概念が彼らなりに描かれていたような気がする。漫画少年だった私には、少年画報や冒険王といった月間漫画雑誌の時代から少年マガジン、少年サンデー、少年ジャンプといった週間漫画雑誌時代への変化を体験した懐かしい思い出がある。また、ヨーロッパに行った時のフランス人学生との会話を興味深く思い出した。私が石川県から来たというと、彼はにこやかに「ゴエモン(五エ門)」を知っているか?と聞いて来た。石川五右衛門のことか?と聞き直すと。「そうだ。」と答えた。安土桃山時代の大盗賊をどうしてフランス人が知っているのか関心を持って、会話を進めると、彼はモンキーパンチ作の「ルパン三世」のアニメファンで、その中のキャラクターのゴエモン(アニメでは「五エ門」で私の言う石川五右衛門の13代目の末裔で斬鉄剣の使い手という設定)に大変興味が有るとのことで、妙に納得してしまったことである。 「アニメ」とは日本語で海外では外来語として扱われる。ジャパニメーションという用語もJap(ジャップという日本人に対する軽蔑語)とアニメーションの合成語として、「下らないもの」、「子供に良くないもの」として生まれた言葉らしい。しかし、今日では日本の数少ない世界価値の1つである。NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」を楽しんでいるが、このドラマは水木しげるという怪奇漫画作家をテーマに、その奥様の武良布枝(ムラヌノエ)さんが2008年に同名タイトルで出版した自伝をテレビドラマ化したものである。彼の漫画の外見はおどろおどろしい怪物が登場するが、朝ドラの水木像は真面目、実直、ユーモア(奥さんからの影響かもしれない)といった人物描写になっている。その中でも漫画が日本社会に受け入れられる過程が描かれていたが、ジャパニメーションの国際的発展も同じ過程であったようだ。 さて、ドラゴンボールの話に戻そう。この作品は鳥山明氏の原作である。彼の代表作にはドクタースランプもある。そのストーリーは孫悟空という異星人が地球にやって来て、武芸を学び、自己成長し、宇宙一の武芸者になって行くというもので、それを取り巻くキャラクターとして亀仙人、クリリン、ブルマ、チチ、ヤムチャ、ピッコロ、ベジータなどなど多数が登場する。孫悟空の成長はその対戦相手を変えることで飛躍的に高まって行く。その過程では、一体どこまでその強さを拡大するのか、読者が心配する程のものである。原作者の鳥山明氏は映画「燃えろドラゴン」などに主演した、俳優、武道家(截拳道(ジークンドー)の創始者)であるブルース・リーのファンであったようだ。武道家としての孫悟空はブルース・リーの側面を持つのであろう。一方、西遊記の孫悟空はお釈迦様の手の平の上でその世界観を描くという限界性を持っている。また、タイトルのドラゴンボールは世界中に散らばった7つのボールを集めることで願い事が叶うことを前提にその過程で出会う様々な人物とのネットワーク化を図って行く展開は、曲亭馬琴(滝沢馬琴)の「南総里見八犬伝」という読本に出てくる仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の8つの玉を集めて行くストリー展開を連想させる。ドラゴンボールに描かれる世界は、戦いを通じて自らの肉体的限界を気(体内エネルギーで肉体面に対峙する意味の精神面を意味するものと考えられる)のコントロールと人的ネットワークの拡大で補う、自己啓発と相互啓発の創造ではないだろうか。この世界で私の好きな道具は「元気玉」である。孫悟空が地球上のあらゆる生命体から少しづつではあるが元気玉を集め、これを自らに取り込み、パワーアップするシーンは印象的であった。お釈迦様の手の平の世界をさらに超える時(この手の平は人間自らが無意識に作ってしまう常識という限界なのかも知れないが)、この元気玉が必要になるのかもしれない。その時、「競争」から「共創」への世界に変わることができるのではないか。そのための3つの気、「元気」、「陽気」、「勇気」が必要になるのではないか。このような価値創りがジャパニメーションの世界ではないか。

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