コラム KAZU'S VIEW

2010年03月

『天国の階段』に見る韓国の幸せ観『ありたい姿』

「天国の階段」とはチェ・ジュウとクォン・サンウ主演の韓国ドラマである。 そこには韓国における階級格差意識と幸せ観が描かれている。冬のソナタ(2004年11月)、スターの恋 (2009年6月)とは違いチェジュウが継母や連れ子からのいじめを受けて、最初は耐えているがやがてたくま しく立ち向かうというチョンソ役の演じ方に新たな発見があることもさることながら、そのドラマが描く 背景にあるテーマは 、家庭愛、親子愛そして男女愛を通じての幸福観がテーマになっている。そのあらすじは以下の通り。
グローバル企業グループの御曹司チャ・ソンジュ(配役:クォン・サンウ)と建築大学教授のハン・サンギョ を父に持つハン・ヂョンソ(名前だけを呼ぶ場合はチョンソ)(配役:チェ・ジュウ)は幼なじみで恋人同士。 それぞれ片親を亡くしているが、幸せな生活を送っていた。しかし、チョンソの父が有名女優のテ・ミラと再婚 してから、チョンソの生活が一変する。ミラの連れ子ユリとその兄のテファ、そしてソンジュとチョンソをめぐ って物語は三角関係・愛憎関係の複雑な展開を見せていく。義母ミラと義妹のユリはチョンソに対するいじめを 次第にエスカレートさせる。チョンソとの対抗意識から義姉チョンソの恋人ソンジュに好意を持ったユリがチョ ンソに殺意を持ち、交通事故を装うって実行するが、チョンソは命拾いをしたものの記憶を失い、さらに失明の 危機を向かえるという運命をたどる。一方、血の繋がらない妹のチョンソを愛したテファは、チョンソ、ソンジュ との3角関係を認識した上で、チョンソとの絆を彼の死をもって完結しようとチョンソを失明から救う為に自ら の臓器提供を目的に自殺を図る。そのテファは贋作を得意とする画家であるが、ソンジュからセイフモールの遊園 地に天国の壁画を描くことを依頼される。これがドラマのタイトルにも繋がっている。チョンソ、ソンジュ、ユリ 、テファ、それぞれが見つける天国の階段とは?
このドラマの伏線としては御曹司と大学教授の娘というソンジュとチョンソが属するハイソサエテイ階級とテファ とユリ兄弟の属する庶民階級との階級格差も1つのテーマになっている。それはユリの行動に象徴されている。彼 女は自分には無いものを全て持つチョンソとの格差を認識し、これを逆転させようという強い動機に基づいて行動 する。その母親の女優ミラはその娘の行動を助長させる一方で、息子や前夫に対しては犯罪行為を画策してまでも 社会から葬ろうとする。その背景には、彼女が前夫との極貧生活から2人の子供をおいて家庭を捨て、女優の世界 で成功したが、その暗い過去を象徴する前夫とこれに似た息子を毛嫌いしているという人物像で描かれている。結 局、大学教授夫人の地位を失い、精神的な障害を持つという末路をたどる。その娘のユリも自らの交通事故の責任 を取ることになる。
天国の階段の意味は天国に行ける者と行けない者の選択があり、天国に行ける者、すなわち神に受け容れられる者 の条件は何か、ということになろう。チョンソ、ソンジュ、ユリ、テファの4人は全てがその階段を上ろうとした 。その結果、テファとユリの兄弟は死と法的拘束によりその階段は外される。しかし、テファはチョンソへの臓器 提供によりチョンソと共に生き続けることを願ったが、結局チョンソも病死する。では、チョンソとソンジュは天 国の階段を上れるのか?は視聴者が決めることかも知れない。ドラマの終わり方は勧善懲悪的で単純であり、ミラ 、ユリ親子の悪行に対し、溜飲をおろすことで幸せ観を覚えるという視聴者もいよう。一方、ユリとテファの兄妹 には仲は悪いが両親がいるが、チョンソとソンジュは片親のみである。韓国ドラマでは家庭が大きな要素として関 わりを持ってくる。家門の継続や親子の序といた儒教思想の強い反映が伺える。その点から見ると、上記の結論は 両親のいる家庭といない家庭の幸福感をテーマにしたものであり、従来の韓国の価値観の変化を示唆するものでは ないか。これは韓国の近代化・グローバル化による核家族化への動きと捉えることができないか。最終回のチョン ソとソンジュの会話に出てくる以下のやりとりに現在の韓国での幸福感が見てとれる。「海の向こうのあの先には 何があると思う」、「何があってもいい。2人が一緒にいれば、どこでも天国だ」、「生きていく」とは「生きる 」ことと「行く」こと。行き先は、「天国」。そこは、苦しみも悲しみもない、別れもない世界・・」。この日 本語訳には訳者と私の意思も入っているが、この世とあの世を対比させ、あの世を幸福の象徴とする「ありたい姿 」、これまでの生き方としての「現状」と「なりたい姿」としての「生きる姿」と見据え、4人の生きざまとそれ を取り巻く人々を描き出す。ありたい姿はあの世にしか描けないのか?と思うと少し寂しい気もする。ふと、三島 由紀夫の「純愛」の世界との共感性を連想した。物的価値、経済価値の上に心的価値があるという価値序列観なの であろうか。

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