コラム KAZU'S VIEW

2010年01月

日本と朝鮮半島の2000年史に見る女帝による日本改革の歴史

寅年が始まった。今年の正月はNHKプロジェクトJapanのシリーズ番組「日本と朝鮮半島2000年」をまとめて見て楽しんだ。かなりの時間を要した。途中、レッドクリフの前・後編を挟んで見ていた。その日韓史の中でも関心があったのが白村江(ハクソンコウ)の戦であった。663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間の、海と陸の会戦であったらしい。この戦いは、唐・新羅連合軍の大勝利に終わった。大陸に超大国である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦いである。我が国はこの敗戦により領土こそ取られなかったものの、倭国の国防体制・政治体制の変革のきっかけとなった。この結果、倭国から日本に脱皮する契機となった、正に我が国が国際社会に国として登場する誠に記念すべき出来事では無かったか。このような国際史の位置づけも去ることながら、時の天皇が女性天皇である第37代斉明天皇(第35第皇極天皇)の御代であることに驚くとともに、その方の日本への影響を思うと、なるほどと納得する面も感じ、不思議を思った。この方ははじめ高向王と結婚して、漢皇子を産み、後に舒明天皇の皇后として、中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(天武天皇)を産んだ方らしい。日本史に出てくる天皇としては中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)は有名度ではかなり上位にランクされる。中大兄皇子は蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼした(乙巳の変・大化の改新)ことで知られている。また、大海人皇子はそれまで「大王」という呼称を「天皇」という呼称に変えた方といわれ、初代天皇とされるという説もある。そのような天皇の母親になる方であるが、ご自身が天皇として在位した時には、自ら軍を率い、九州まで出向いた方のようで、正に女性将軍、英国のエリザベス1世のような女帝では無かったか。なお、エリザベス1世は余り男運に恵まれなかったようである点が相違点かも知らない。さて、斉明天皇は一度、譲位(日本の皇室史では最初の譲位らしい)するが再び天皇に即位(重祚(チョウソ))している。これも史上初の方である。在位5年(660年)の時に、三国時代の朝鮮において親日国であった百済(クダラ)が唐と新羅(シラギ)によって滅亡させられたが、その百済の遺民が新羅と唐軍に抗戦していることを知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送り、百済を援けるため、武器と船舶を準備し、九州、筑紫(ツクシ)の朝倉宮で新羅と唐軍との戦争に備えていたが、遠征軍が出発する前の661年に当地で亡くなってしまう。そして、白村江(ハクソンコウ)の戦になったという歴史である。

まさに、日本が東アジアに国際的活動を起こすと共に国内の体制を整えて日本が国際的存在になった石杖が斉明天皇であったのではないか。一説によれば初代女帝の推古天皇(628年没)に続く2代目の女帝とされる。7世紀の日本の舵取りは推古、斉明(皇極)、持統(天智天皇の皇女、天武天皇の皇后)の3人の女帝が行ったことを思うとき、改めて天照大神のDNAを思い知らされる。

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