コラム KAZU'S VIEW

2008年11月

サザンの30年が意味するものは?

今年の夏のコンサートを最後にサザンオールスターズは活動を休止するという。30周年記念LIVE「真夏の大感謝祭」が日産スタジアムで行われた。4日間で30万人を集めたという。その記録テレビ版を見た。土砂降りの雨の中、聴衆が歌い、踊り、涙している様子が印象的であった。子どもを背中におぶってステージを見ている女性も目についた。これだけの人数の老若男女を引きつける力は何であるのか。2003年10月のコラムで触れたが、カラオケは日本発の国際的ヒット商品であり、カラオケ好きの私に取っては国内外でカラオケを楽しみ、音楽が世界で最も創造的で力を持った言葉であると信じている。
サザンは男5人、女1名のグループで、代表の桑田佳祐氏である。彼らは1978年6月25日「勝手にシンドバット」でメジャーデビューした。後にこの日は「サザンの日」と言われることがある。私がサザンの存在を耳にしたのは大学生のころ、青学に面白いミュージシャングループがいるという噂を聞いたのがきっかけだったような気がする。当時はコミックバンドという印象が強かったが、その原因はデビュー曲の印象が強く影響していたのであろう。その後、「愛しのエリー」が出て、恋愛をモチーフにしたイメージが新たに加わった。かのビートルズも当初コミックバンド的なイメージを持っていたが、インド旅行後メッセージ性の強い曲風に変化してこととイメージを重ねて持っていた。しかし、サザンの曲は男女愛をテーマに「愛しのエリー」や「TSUNAMI」のような精神的視点と「エロテイカセブン」や「マンピーのG★SPOT」のような肉体的視点での表現曲を一貫して創作し続けて来点にビートルズとの違いを感じる。彼らの曲は湘南サウンドといわれた事があり、湘南海岸のイメージと重なる曲が多かったように思う。最近、大学時代の恩師の1人が亡くなったが、その先生とは大学のゼミを終えた後、夜10時過ぎから湘南海岸まで学生と一緒に夜中までドライブして遊んだ思い出がある。そのような経験がサザンの曲のイメージをより強くそのようなものに誘導していくのであろう。彼らのライブステージを見ていると盆踊りを連想することがある。2004年10月のコラムで日本人のルーツについて触れたとき、台湾の太魯閣(タロコ)を訪れた際にそこで聴いた音楽が日本の盆踊りを連想させた事を記述した。サザンの場合は音もロック調のビートの効いたリズムであるが、ステージの踊りが観客に伝わり、何万人もの人々が体を動かす姿が正に盆踊りそのものである。その踊りをリードする詩が男女の恋愛を精神的、肉体的両面で伝えられるという状況を創出する所に、リズムと詩、そして体の動きが一体となったエネルギー発散の場が形成される。これは詩によるデジタル情報と、曲とボデイーモーションというアナログ情報を組み合わせた場の創造ではないか。これがサザンと聴衆を一体化させる仕掛けのような気がする。男女愛は性愛に連動する。盆踊りはフリーセックスの場でもある事は先のコラムで指摘した。人間が人間のために作った規制や倫理におけるタブー(TABOOは「エロかわいい」の倖田來未とも共通するが)からの解放は本来個人的には自由を求める人間の本性に基づくものなのかもしれない。その意味で、生の根源とでも言うべき男女間の恋愛を精神的・肉体的両局面で取り上げることのメッセージ性は大きなものがあろう。サザンの詩(桑田佳祐と言った方が良いかもしれない)には意味不明なものがある。その中で、1998年に出した「爆笑アイランド」という詩がある。その中で"Plastic island"という表現が出てくるが、多分、現在の日本の政治・社会を風刺したものだと思う。彼の"Plastic"に込めた意味合いは何であろうか。10年後の今年の夏にPlastic Super Starという曲もリリースしている。多分褒め言葉ではないと思うが。
サザンの30年は日本がJapan as No.1といわれ、世界中の富をその物づくりの力で集め、土地や美術品に投資し、バブル経済期を通じ、失われた10年を経て社会改革や企業改革により再びその経済的勢いを取り戻したように見える一面、安心・安全が声高に叫ばれる中、社会的不信感が蔓延してきた時代の流れと重なる。今日、日本は文化・社会において大きな変化を迎えようとしている。アメリカの金融問題に端を発した経済問題は100年に1度の大津波(TSUMANI)とも言われ、日本にも押し寄せ来ている。このような変化にPlastic islandはどう対処するのか。Plasticの素材そのものを変える時に来ていないか。

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