コラム KAZU'S VIEW

2008年04月

桜が日本人の文化を象徴する意味は?

花見の季節がおとずれた。家族と一緒に富山市の松川公園まで足を伸ばした。松川の両岸に咲き乱れる桜は水面をピンクに染めていた。船から眺める空と桜の花の間から見える市庁舎の直線を基調とした幾何学模様の景観と、時々風に乗って聞こえてくる全日本チンドンコンクールのにぎやかな音が印象的であった。日本人は花見といえば桜であろう。しかし、桜は樹木であり草花とは異なるのではないか。なぜ、日本人は花見イコール桜となるのか。俗に、桜は散り際が潔い、そこが日本人の生きざまに合致する、というような説明が一般的である。散り際の一瞬の価値を桜の散り際の瞬間と重ねている。それは本当に日本人の象徴なのか。「武士道と(伝ふ)は死ぬことと見つけたり。」は「葉隠(葉可久礼:ハガクレ)」の一節である。死に際、つまり、散り際の潔さとは武士、つまり男の論理ではないか。人材育成の世界では、草花を育てるには1年、樹木を育てるには10年、人を育てるには30年かかるといわれる。1年単位の草花と10年単位の樹木の一種である桜を同一視する日本人の感性とは何であろうか。

桜は花びらを散らしたらサクランボになる。かつて、3人の女性シンガーグループにスリー・キャッツというグループがいて、そのヒット曲の1つに「黄色いさくらんぼ」という曲があった。その歌詞は「若(わーか)い娘がウッフン、お色気ありそでウッフン、なさそでウッフン・・・」とういものであった。黄色のさくらんぼは熟してピンクか紫に近いピンクになる。色によって年齢の変化を表しているから、「若い娘」イコール「黄色いさくらんぼ」となる。しかし、最近、熟しても黄色いさくらんぼで「月山錦」(ガッサンニシキ)」という銘柄があるらしい。大変貴重価値の高いさくらんぼだという。ただし、一般にサクランボという食用の実をつけるものはセイヨウミザクラ(西洋実桜)といわれる花見用の桜ではない。しかし、さくらんぼはある意味で女性を象徴するものではないか。桜はその花の散り際の潔さが男、その後の果樹であるサクランボは女性という二面性を持つ樹木という意味であろうか。男か女かというデジタルのニ値世界では理解できない世界であろう。そのような価値観に基づき世界的に特異な文化、文明を築いた日本人に世界中が注目しているにも関わらず、その価値観や文化・文明論の説明責任を果たしていないのが今の日本人ではないか。育てる期間として1年単位の草花と30年単位の人材をつなぐ樹木の中で日本人が最も好む桜とは一体何なのか?桜の花は樹木の花には珍しく、下に向かって咲く。太陽に向かって咲く花の多い樹木の中で我々人間に向かって咲いてくれる花を親しく、身近に感じるのが日本人なのかも知れない。

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