コラム KAZU'S VIEW

2007年10月

神風、亜細亜からの風、そして千の風は日本人の心価値の回帰になるか?

今年も間もなく師走が近づいて来る。かつては師走、12月と言うとクリスマス、大晦日、冬休み、そして正月に続く、とても楽しいイメージであったが、何時の間にかもう今年も終わりか?という一種あきらめと言うか、残りの時間を数えるというか?楽しさというよりわびしさが増してきたことに自分の齢を改めて実感する今日この頃である。そういえば、去年の紅白歌合戦ではどんな歌があったかとふと思う。そういえば、オペラ歌手の秋川雅史さんが歌った唄で「千の風になって」という詩があったのを思い出した。何か、強く印象づけられた。「私のお墓前で泣かないで下さい。私は悲しんでなんかいません。そこには私はいません・・・・千の風になって・・・」というメッセージが強く心に共感をもたらしたせいではないか。死は決して悲しいことではなく、新たな出発であり、今まであった多くの束縛から解放され、好きな時に好きなところに心ゆくまま走り回る風に成れる楽しみを楽しめる存在になった喜びを伝えたい詩のような気がする。
そういえば、日本人は風を象徴として多くの意味合いを使い分けている。「風を読む」、「風に逆らわない」、「風情」、「風見鶏」などなど。風に脅威を感じ、親しみを感じ、こころを感じ、世の中の傾向を感じ、風とともに生きる術を持った特長的な人種が日本人だったのではないか。風というと、「神風」をイメージする方もいるであろう。その語源は分からないが、鎌倉時代に日本は当時の中国の王朝「元」に2回攻められ、国家存亡の危機にあった。その時、元の船が日本に攻め来た(元寇)際に神風が吹き、元の船をことごとく海底に沈めたとい救国感を日本人の多くは持つ。その歴史感を持って、第二次世界大戦が敗戦濃くなった頃、ある海軍将校の発案から出た人間爆弾(人間が爆弾を抱えて敵兵であるアメリカ軍に立ち向かう)によって日本を守ろうという考えと、これを実践する日本の若者の存在が、神風という言葉に一種独特の意味合いを日本人に抱かせる。私自身、戦争を知らない子供たちの一種であるが、親から聞かされる戦争の話しは自分の知らない世界であり、その当時の自分の世界とは非常にかけ離れた、バーチャルな世界であった。しかし、この言葉に深い悲しみと傷を持つ日本人がいることも忘れてはならない。それは多分、男性より女性の方が強かったのではないか。自分の夫、息子を死地に追いやる風に抗し切れなかった悔いの心ではないか。亜細亜からの風は、1979年に中国出身の女性歌手ジュデイーオングさんが歌った"The wind from Asia:「魅せられて」"という詩のことである。池田満寿夫さんの原作、監督の「エーゲ海にささぐ」という映画の主題歌であった思う。昨年6月にエーゲ海クルーズを体験し、そのコバルトブルーに映える空と海をバックとした白壁の家を実際に目にしながらエーゲ海の水面を渡る風を肌で感じることができたことはとても良い経験であった。千の風はその詩から、懐かしくまた新たな世界への誕生を意識できること、いつでも愛すべき人々の側にいるというメッセージであろう。多分、仏教思想での「輪廻」の世界に通じるものではないか。その意味で「千の風」という詩が昨年ヒットし、今年も流行し続けていることは日本人が日本の心に回帰し始める風が吹き始めたのではないか。この風が更に大きく、強くなり来年には更に日本人が日本の心を再認識し、日本価値を世界価値にするための努力を1つの仕事として思い、行動する日本人が一人でも増えたら、私にとっては自分の幸せが1つ増えたことになる。

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