コラム KAZU'S VIEW

2007年07月

『うたの日』はかか楽の価値づくりの日か?

先日、BSテレビを見ていたら「うたの日」というタイトルでbegin(ビギン)という男3人からなるミュージシャングループの番組をやってた。このbeginとうグループは沖縄のグループでそのリーダーの父親は沖縄音楽のリーダーだったという。この日のステージがここ数年恒例となり、多くの聴衆が全国から集まって来るらしい。Beginの歌には「島歌」、「涙(ナダ)そうそう」、「島人(シマンチュ)ぬ宝」等などがある。私がこのグループを知ったのは「はな」という詩を歌っているのを聞いたのがきっかけである。「泣きない、笑いなさい・・・」は素直な人間の感情の表現であり、このような表現が流行歌の表立った場面(さび)に出ることはカルチャーショックであった。伝統的日本文化は能のように仮面で表情を隠し、行動でその意を伝える、ある意味屈折した文化の反面を言い表している。このような文化伝統は多分弥生文化のDNAで縄文文化のDNAとは異質の存在だと思う。沖縄文化には南方文化の匂いを感じて憧れを抱く一面、異質な面も感じる。2002年に台湾を訪れた時、始めて台湾の太平洋側をバスで周遊した。その途中で一泊した村で、懐かしい音楽を聴いた。それは日本の盆踊りのリズムに同調していた。気怠さの反面、興奮を感ずるリズムでもあった。日本の盆踊りは実はフリーセックスの場づくりの意味も持っていたらしい。盆踊りの晩だけは社会的既成概念にとらわれず、自由奔放に行動する事が許された唯一の日だったらしい。これは種保存則の面からは血統の継続性という保守的既成概念に対し、混血による突然変異性を意図したより新しい、環境変化に適合性を持った新しい種の生成という戦略の存在を憶測させる。稲作を生活基盤とした弥生人は定着性と保守性を、狩猟生活を基盤とする縄文人は移動性と革新性をその特性としていたのではないか。この2つの特性を社会文化として取り込んだものが日本文化の土壌になっているのではないか。
話が、横道にそれたようだが、沖縄の音楽は私からすると女性的に受け止められる。憧れはあるが、論理的には納得できない世界である。話をうたの日にもどそう。そのエンデイング曲は「うたのうた」という曲だった。この詩で気にかかったのは「未来のために響けよこのうた」、「うたえよ踊れよ、泣けよ笑えよ、この星はまわって行く・・・」とういくだりであった。何を次代に残すべきか?遺さざるべきか?それが問題だ!」のたぐいである。何か男の寂しさを感じてならない。2004年10月のコラムでバジャウと呼ばれる一生海の上で生活する人々の話題に触れた。この人々の末裔が日本人のルーツという仮説を私は持っている。この民族は母系家族を基本としている。海という豊かな環境の中で船上という物理的に限られた空間に生活する宿命を生きて行く術として身に付いた価値観と行動はある意味で日本女性の1つのルーツのような気がしてならない。その意味で男は「海に抱かれて・・・」の世界に憧れる。その実態を良く解りもせず、勝手な空想を膨らませてその詩の意味と曲の組み合わせから来る文化のルーツを考えていた。Beginの詩から新たな日本価値が生み出せないだろうか。

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