コラム KAZU'S VIEW
2007年01月
アルビントフラーの『21世紀は人間の再定義』の意味するものは
今年の正月三が日は穏やかな天気だった。テレビを見ていたらアルビントフラーと田中直毅21世紀政策研究所理事長の対談番組があった。教育問題をテーマにしていた。知識時代を迎え、IT技術やバイオ技術、脳科学の急速な発展は人間の根元をやがて見直す機会を招聘することになろう。人工臓器やサイボーグ技術は人間の肉体と精神の分離を益々促進することになる。その終末は人類に取ってハッピーエンドが否か。ハッピーエンドを迎えるためにも人間の創造力が欠かせない。その可能性は正に次代の主役の子供達に委ねられている。その繋ぎが教育であるとの主張を未来学者のトフラーの口を通して聞くことができた。
アルビントフラーといえばその書物の中で「第三の波」が広く知られている。農耕革命→、産業革命→"情報革命"の変化点を経て人類は未来へ向かう。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、「その社会は年配者を世話する人々が必要で、彼らはどのように同情し、どのように正直であるべきかを知っていなければならない。・・中略・・それらは感情的であり、それらは愛情である。データとコンピュータだけでは社会は実現しない・」と彼は指摘する。トフラーの言うデータとコンピュータとはデジタルデータとデジタルコンピュータの意味ではないだろうか?デジタルは互換性の代名詞であり、零と一の二値世界を意味している。この二値は勝ち組と負け組に通じる。勝ち組でもなく負け組でもない存在は認められない。絶対神に選ばれるか、選ばれないかの世界である。イスラム教とキリスト教の対立の世界の結末は予想できるが、その結果は受け入れたくないと考えるのが今のグローバリズムの1つの解ではないか。そこにこそ、日本人の曖昧さがグローバルバリューになり得る機会のような気がする。インフォメーションを情報と訳した日本人はなるほどと思う。 情報の「情」はジョウ、ナサケと発音する。しかし、この字を漢和辞典で引くと、最後の読みとして「ココロ」と読むことが記載されている。ココロと言うと「心」を連想するが、これは心臓としての臓器と中心と言う物理的な意味合いを持っているのではないか。情をココロと読めば「情報」は「こころを伝える」、「こころにむくいる」と言う意味になろう。そもそも、ITはコミュニケーション技術であり、人間のコミュニケーションは「口頭伝承」→「印刷出版」→「情報ネットワーク」とコミュニケーションネの量的拡大をしてきた。しかし、その反面、コミュニケーションはココロ(情)と形式(物)を分離させた。その分離はデジタルの世界を拡大した。その影でアナログは肩身を狭くした。アナログは連続であり、個性的で互換性に乏しい。かつて物理学の世界で光りが粒子説と波動説に分かれ議論された。しかし、今は光の両面性が認識されている。国旗に日の丸を掲げ、日の出る国、そして天照大神(アマテラスオオミカミ)に象徴される女性なくして夜の明けない国は光の特性を持つ国民として正に世界に出るべき機会ではないか。
トフラー氏は日本人にそのような初夢をプレゼントしてくれたような気がした。