コラム KAZU'S VIEW

2006年12月

ラストサムライは和魂和才のアメリカ人から日本人へのメッセージか?

ラストサムライというアメリカ映画がヒットした。撮影場所はニュージーランドらしい。ロードオブザリングの撮影場所と同じ国であることが何となく狭い日本を舞台としたストーリーと矛盾を感じるが、一方で、土地が狭いからこそ雄大な精神力をイメージして広大な大地を見える形にしたところがおもしろいとも思える。ストーリーの時代背景は明治維新であり、侍の時代から西洋的市民民主主義化時代に大きく変化する過渡期に設定されている。薩長官軍が幕府勢力を排除する時流を逆流する捨て石の最後の侍とその侍の心を明治天皇に伝える役割を担うアメリカ人が主人公である。このアメリカ人は日本に武器を売り込む目的で日本に開港を迫ってきた海軍の大尉である。その目的とは裏腹に日本人の文化、精神特性に共感し、最後の侍と運命を共にしようとしたが、生き残りその最後の侍の心を明治天皇に伝える使徒となるのである。この映画を見てそのコスチュームは何か日本的ではないような印象を受けた。何かモンゴリアンの雰囲気が漂い、違和感を覚えた。丁髷(ちょんまげ)ではなく弁髪(髪の毛の一部をのぞいてすり落とし、その一部の髪を長く伸ばしその髪を束ねるヘアスタイル)が見受けられたことがその根拠である。また、その鎧甲も何か違和感を感じたところが気にかかった。

この映画の時代背景は西欧列強がアジアを植民地化するためにその勢力を日本に向けようとしていたころである。アメリカは南北戦争を集結させ、その戦争で開発、生産、余った武器を輸出する先を探していた。その頃、日本は戊辰戦争が終わり、薩長中心政府が既存勢力としての武士階級の一層を図ろうとしていた。国家鎮護の司としての武士がやがて侍となり、その侍精神が戦う機能からすれば剣をもって武力行使をした時代から大砲、マシンガンを中心とした戦いになった変化に対応しきれないまま、その生命を絶つという美学を背景としている。その場に立ち会ったアメリカ人が主人公である。彼は侍社会に偶然入り、その生活が自然の中に生きる農耕生活とそれを支える人々の心の豊かさの中に自分の心の古里を見出し、また、自らが殺害した侍の妻の屋敷に暮らし、その家族との時間を通じてやがてその妻や子供に愛情を感じるようになる。そのうちに、その村の価値観を受け入れていく。この中で侍の心的価値(亡びの美学、侍とは死ぬことと見つけたり(葉隠れ))の世界観を共有して行く。男の価値観になっているのではないか。戦いは終わり、彼は侍大将から日本刀1振りを侍の魂として預かる。それを近代日本を象徴する明治天皇に渡すのである。アメリカの手を経ないと日本の心の伝承ができない日本人を印象づける1シーンである。しかし、今日本人のうち日本人の良さをどれだけ自らが認識している人がいるのだろうか。外国人からこれを教わることの多い今日このごろを複雑な気持ちで受け止めている。

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