コラム KAZU'S VIEW

2006年11月

大和ミュージアムの感動

11月初めの連休は広島で学会があり3日間滞在した。その間の1日を使って呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)を訪れた。友人に以前から話を聞いていて行って見ようと思っていた。まず、圧巻だったのが館とその前の道を挟んだところに展示されている廃船となった潜水艦であった。そして、入り口近くに展示されていた戦艦陸奥の碇、スクリュー、40cm主砲であった。40cm主砲と言えば当時の戦艦搭載砲としては世界最先端技術のものであり、その戦歴は幾多の海戦を生き延びてきた輝かしい戦歴を有する戦船であった。しかし、戦艦陸奥は呉沖で謎の大爆発をおこし、戦いでの寿命を全う出来なかった悲運の名鑑とも呼ばれている。その運命は、この資料館の主題である大和の最後、つまり、片道の燃料で沖縄戦に向かうそれと重なる。その当時の乗船者の思いは館内に掲げられた遺影とその残された我々日本人へのメッセージからも感じられて目頭が何度も熱くなった。

現在の日本を考えてみよう。徳川時代以降、日本は儒教思想を基礎に家制度を中心とした家族主義が伝統として存在して来た。明治維新以降は家は拡大解釈され、国家や大東亜共栄圏へと広がりを見せた。そして、昭和20年の終戦を迎えた。戦後、民主主義の思想がアメリカ進駐軍を中心に日本に展開された。そして21世紀を迎えた今、日本人はどこに向かおうとするのか。個人が自由を求めるという本質は「個人価値」として益々多様性を増す一方で、その自由を担保するための社会的合議性(または融合性と言うべきか)を基礎とする「社会価値」というもう1つの価値の重要性が高まっている。この2つの価値創造が今日本人が世界から問われている課題ではないか。その答えを出す責任を日本人は自覚し、改めて「和魂和才」の回答を求め五十分の一の大和の模型は見応えがあったが、その隣にあった人間魚雷「回転」は、当時の心を同じくする日本人が作った大小2つの物(鉄の船)に明白に表れているような気がした。当時の日本の心の価値を思わざるを得ない。「特攻」と呼ばれるものは現在アラブ地域で起きている自爆テロという言葉に変わっているが、改めてこのような物を作り出すことの悲惨さを日本人は世界に伝える必要があろう。3年前に英国Manchesterの産業科学博物館を見学した際に、スピットファイヤー(第二次世界大戦における英国の名戦闘機)の隣に日本の桜花が展示されていて驚いた。桜花は日本で作られたジェットエンジン付きの特攻機である。この博物館には産業革命の担い手であった初期蒸気機関や自動車、繊維関連の器機や製品も展示されていた。この辺りの展示感覚がイギリス人と日本人の違いではないかと感じた。
見学の後半は技術や社会の沿革をパネルや遺品で紹介するものだった。その中で特に目を引いたのは大和の製造法に関するものであった。大和建造は当時のものづくりに関する固有技術(造船技術)と管理技術(製造法)の粋を集めたものであった。大量の物資と労働力を使って短期間で、かつ、秘密裏に最先端のものづくりを進めるための管理技術を思うと、その成果が戦後日本の産業発展に大々的に活用できなかったことが残念でもある。特に、科学的管理法の導入を証明する工程表に関する資料は驚きであった。かつて自動車王であったH.Fordが造船に流れ生産方式を導入して失敗したと言う話を聞いたことがある。一品料理の大和の建造が高度な管理技術に支えられていたことは、現在進めている北陸地域の産業機械製造業を対象とした人材育成事業における個別生産を特徴とするものづくりの管理技術の伝承と人材育成の課題解決の大きな手がかりであると考える。また、このことはものづくり技術を日本の幸せに繋げるため60年前の日本人がその心の価値伝承を願ったことにも通じるものではないかと思いたい。

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