コラム KAZU'S VIEW

2005年11月

チャングム私観Part 2-知識時代の教訓-

先にチャングム私観のコラムを書いた。これに続くコラムを書いてみたい。

政変に巻き込まれ、宮廷女官からヌヒに身分を落とされた上で宮中を追放され、済州島(チェジュド)に流されたチャングムは、ハン尚宮(サングン)を死に追いやったチェ尚宮らえの復讐のために宮中に戻る方法を思案していた。その時、医女チャンドクに出会いその卓越した医療スキルを習得し、宮中に戻るために医女試験を受けることになる。その過程でチャングムはかつて一時、スラッカンを追われ、宮廷の菜園で時を過ごした際に出会った医師のチョン・ウンベクと再会し、医術を志す人間が復讐などという人の命を奪うような目的を心に持つことは許されないことを指摘される。医療は技術より患者の命の尊さを思ん図ることが優先するという「こころの価値」の優位性を指摘される。その後、医女教育を受けることになるが、そこで出会った教授のシン・イクピルはチャングムの知識優先の行動に対し、3現主義(現場、現物、現実)の重要性を指摘する。これはチャングムの新たなる自己改革のイネブラー(成功要因、変革要因)となる。イクピルは徹底的にチャングムの知識依存的行動を弾劾する。その言葉に「知識豊かな人間は、知識を過信し、思い上がっていて、現実を直視し、現実から学ぶ姿勢に欠ける。」ことを諭す。これはイクピルの実体験を通じた医師、医女教育の基本となっている。彼はかつて知識を過信し、誤診を行ったという経緯がある。患者に学び、医療現場に学ぶことではじめて知識が生きるということであろう。

我々人類が知識を対象に思考し、研究し始めたのは紀元前5世紀におけるギリシャでの「無知の知:知者は神のみであり、人間は神でないことを認識し、汝自身を知ることに努力すべき」を唱えたソクラテスの時代に遡る。その知識が人類を発展させ、多くの価値を生み出して来た。その価値の多くは物的な価値・豊かさと経済的な価値であった。20世紀後半から我々は情報技術という新たな可能性を手に入れた。その可能性は知識を時間的および地理的制約から飛躍的に解放することである。すなわち、何時でも、どこからでも世界中の知識を入手できるというグローバル化の可能性である。知識の流通技術は、口頭伝承→文字媒体記録・伝承→印刷物作成・伝承と発展してきた。印刷技術によって我々は時間と地理的制約を大きく打破して知識共有を実現できたが、そのきっかけは聖書の印刷であり、神の心を理解した人がその感動をより多くの人々に伝えたい、という願いから生まれた技術であった。しかし、印刷物は一人歩きをしだし、心と印刷物としての知識は離れた存在になった。情報技術は文字、絵・写真に音声を加え、さらに検索機能も付加したものに進化することにより印刷物による問題の解決可能性を高めた一方で、心と知識を切り離すことを促進する結果となった。ハッカー、クラッカーなどなど悪意に満ちた情報流通が社会的問題となっている。情報とは情(こころ)を報(つたえる)ものであったが、人の情(こころ)の善悪の振り子を増幅する力を情報技術は我々に与えたのかもしれない。

20世紀は自動車に代表される物量の時代であった。この物量がある程度飽和すると、この物量の価値をさらに向上するものとして知識が市場価値を持ち、これを商品とする大量生産・大量販売・大量廃棄のビジネス化の時代、知量の時代が情報社会、知識社会としての21世紀の現実的側面として見えだしてきた。ソクラテスの「無知の知」を原点に我々は知の面で神を知ろうとし、神に近づこうとしてきた。しかし、その過程で情(こころ)の無知を置き忘れて来たのではないか。チャングムの医女修練はそのことに関する警鐘を、人が人の命を扱う医療という過酷な場で、母性という命の継承を担う立場から鳴らしているような気がする。

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