コラム KAZU'S VIEW

2021年09月

Tokyo 2020オリンピックの歴史的評価を考える

 東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会が9月5日(日)の閉会式で全てが終わった.大会組織委員会会長の橋本聖子氏のスピーチに,この大会が成功だったかどうかの評価は歴史的評価に委ねる主旨の内容があった.この歴史的評価とは50年後か,100年後か?また,その評価とはオリンピックの歴史の中の評価なのか,人類の歴史の中でのオリンピックの社会的価値の評価なのか,を考えてみよう.

近代オリンピックの歴史(注1)は,1896年の第1回夏季アテネ大会(冬季競技大会は1924年シャモニー・モンブラン大会)からで,今回の第32回夏季オリンピック東京大会までに125年の歴史がある.また,日本のオリンピックへの参加は,1912(明治45/大正元)年の第5回ストックホルム大会からである.この時の参加選手は,陸上短中距離の三島弥彦(ミシマ ヤヒコ)とマラソンの金栗四三(カナクリ シソウ)の2選手であった(注2).従って,日本のオリンピックの歴史は100年余りとなる.その間,第6回大会は1916年にベルリンでの開催が決まっていたが,第一次世界大戦(1914〜18年)のために中止となっている.女子の参加は1900年の第2回パリ大会からになる.日本人最初のメダリストは,1920年の第7回アントワープ大会テニス(シングルスとダブルス)の熊谷一弥(クマガイ イチヤ)になる.日本人最初のゴールドメダリストは,1928年の第9回アムステルダム大会陸上の織田幹雄(オダ ミキオ)と競泳の鶴田義行(ツルタ ヨシユキ)になる.鶴田は,第10回ロサンゼルス大会で連覇を達成している.そして,1936年第11回ベルリン大会で日本女子最初のゴールドメダリストの競泳選手,前畑秀子(マエハタ ヒデコ)に繋がる.この大会は,1940年第12回東京大会へと繋がる意味でも,また,前畑自身,前回10分の1秒差で銀メダルとなった雪辱の大会になる.そして,当時の日本国内における国威発揚機運の盛り上がりの中で,当時の日本のオリンピアンへのプレッシャーは想像に余りある.その中で,「前畑ガンバレ!」の実況中継アナウンサーの絶叫と共に,日本のオリンピック熱も最高潮に達していた時期であろう.しかし,第12回夏季競技大会は,日本の開催辞退によって,結局,中止となった.オリンピックの日本開催,そして,アジアでの開催の夢は,1964年第18回東京大会まで待つことになる.その後,日本でのオリンピック開催は,冬季競技大会が,1972年第11回札幌大会,1998年第18回長野大会を経て,2021年第32回夏季競技大会となった.これまでに日本が獲得した金メダルの獲得数は,夏季競技大会の169個,冬季競技大会で14個になる[2].日本,そして東洋で最初のIOC委員に1909年(明治42年)になった嘉納治五郎(カノウ ジゴロウ,注3)は,この100年の日本のオリンピックの結果をどのように受け止めているのであろうか.

 今から100年前,1920年代の世界情勢は見てみると,ヴェルサイユ条約が1919年6月にフランスのヴェルサイユで調印された[4].その内容は,第一次世界大戦における連合国(英仏伊日米露)とドイツの間で締結された講和条約である.しかし,後にこの内容が,第二次世界大戦を引き起こす元になってしまった.ドイツは戦争賠償金として1320億金マルクを課された.その額はドイツの国家予算の20倍に上った[4].この賠償金返済に喘いだ末,ドイツは,A.ヒットラーを生み,ナチスを形成させたのではないか. 当時の米国第28代大統領ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson)は,後の国際連盟の基となる「14か条の平和原則」(注4)を掲げて講和条約締結に動いたが,そこには戦争責任や戦争指導者の訴追要求を示唆するものはなかった[4].しかし,英仏伊日等の圧力により結果的に戦勝国の利権拡大に繋がる条約内容になった.日本は1914年8月に連合国側として参戦し,ドイツが持っていた南洋諸島,中国の山東半島の租借地を占領した.これに基づき,日本はドイツが持っていた山東半島の権益を日本に引き渡すことを要求した.しかし,日本はその一方で1915年1月に中華民国政府(1912年〜)に対華21ヶ条要求(注7)を提示し,満州および内蒙古における日本の権益確保を図っていた.そもそも,日本の中国大陸における利権問題は,日清戦争(1894〜95年)終結のための日清講和条約(下関条約)において,清国から遼東半島,台湾および澎湖諸島(ホウコショトウ)の割譲を得たことに端を発している.その後,遼東半島は,仏独露の三国干渉(1895年)により,清に返還されることになる.これが日露戦争の火種となった.そして,第26代米大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋による日露戦争終結のためのポーツマス条約(1905年)によって日本は,それまでロシアが満州に持っていた遼東半島租借権や南満州鉄道の経営権を継承した[5].更に,1910年には朝鮮(韓国)併合によって,日本は満州への陸路確保が可能となっていた. 対華21ヶ条要求とベルサイユ条約の山東問題は,21カ条要求の実質的立案者とされる当時の外相,加藤高明(カトウ タカアキ)の外交戦略の一環であったとする指摘がある[6].日露戦争後の日本外交の最重要課題は,日本がロシアから獲得した満蒙の利権の返還期限が,清露間で締結されたまま引き継がれたため,日本としてはこの期間を延長する事が国益に直結すると考えられていた.そこで,その交渉を有利に運ぶための条件としてベルサイユ条約での山東半島問題を交換条件として,満蒙における日本の利権期間を延長するという加藤外相がとった外交戦略ではなかったかという指摘である.従って,日本の第一次世界大戦への参戦は,日英同盟を名目上の理由にしているが,実は日本の満蒙権益問題が背景としてあったというものである.日露戦争後の日本の中国大陸への進出行動に警鐘を鳴らしていたのが, 米国イェール大学教授で,歴史学者の朝河貫一(アサカワ カンイチ)であった.彼は,1909(明治42)年にそれを「日本之禍機」(実業之日本社)で出版している[7,8].その中で,彼は,日露戦争の日本側の大義は「清国の自治独立」と「清国市場の公平な解放」にあった事を主張している.これはウイルソンの「14か条の平和原則」の以下の2条に対応しよう.
第3条:平等な通商関係の樹立,
第5条:植民地問題の公正な措置「民族自決」.
日露戦争によって,世界の信頼と平和への日本の貢献を国際的に評価された日本が,その後,満蒙における利権獲得戦略によって,やがて世界からの信頼を失い,孤立し,日本帝国滅亡の歴史をたどった事を,今を生きる我々日本人は,改めて,客観的事実と,それを基礎とした個々の見識で再評価することを考えてはどうであろうか. 朝河の「一時の国益,百年の国害.一時の利権を増進して国を危うくせんか,はた,公平の競争によりて長久の進歩を得んか?」[7]の問いは,今も生きている.2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の際に起きた,福島原子力発電所事故に対する,国会事故調「東京電力福島原子力発所事故調査委員会報告書(日本語版)」(注8)[8,9]の「はじめに」に,黒川清(クロカワ キヨシ)委員長が,朝河貫一の「日本の禍機」を引用し,100年前の警告を再び,真摯に受け止め,行動変革を起こす必要性を述べている.

  今から100年後を考えるとき,今から100年前を改めて思い返す事も必要ではないか.20世紀は戦争の世紀とも言われ,世界中が帝国主義と言われる世界規模のサバイバル時代であった.そのような100年と共に近代オリンピックも歴史を重ねてきた.欧米列強の植民地化に喘いだアジアの国々の中で唯一,その難を逃れた日本は,かつては,「アジアの星」的存在であった.しかし,その辿った道のりは,多分,100年前の日本人が描いた未来予想図とは違ったものではなかったか.日本帝国を終焉させ,民主国家として日本を再生させたアメリカは,アメリカ軍をこの8月末までに,アフガンから撤退させた.20年を掛けて国費と人命を投入し,アメリカは何を得たのか?アメリカ軍が去ったアフガンは,アルカイダなるイスラム原理主義者を中心とする武装勢力が支配することになりそうだ.民主主義を錦の御旗(ニシキノミハタ,このアメリカの戦略は, 14か条の平和原則を提唱したウイルソン大統領にちなんでウイルソン主義と呼ばれている)に掲げ,世界のリーダーとして君臨した米国に陰りが見られる.太平洋戦争後に世界のリーダーとして君臨した国,アメリカが行った主な戦争としては,朝鮮戦争(1950〜53年),ヴェトナム戦争(1955〜75年),イラク戦争(2003〜11年),そしてアフガン戦争(2001〜21年)が上げられるが,いずれもアメリカは,完全なる勝利を得られなかった.その原因は何であろうか?100年前に朝河貫一は,日本人の他民族に対する卓越性として,愛国心,義心,意力,公平なる態度,沈重の省慮を上げている[7].その中でも,特に,「国民自ら反省し,自ら吟味するという国民の反省力」を強調している.その100年後に生き続ける我々日本人は,その民族的優越性を保持し続けているのであろうか.日本で平和の祭典であるオリンピックを開催する機会には,その対局にある戦争や争い(注9)が世界的に発生している事に不思議な因縁を感じる.100年後の我が国のありたい姿と,その実現のためのロードマップを,現在のコロナ禍を踏まえ,我々はどのように描き出し,我々自らを変えて行こうとしているのか.Tokyo 2020は,そのヒントをどのように与えたのか,1人1人がじっくり考える機会が,今ではないか.

(注1)オリンピックの歴史を古代オリンピックまで遡ると,紀元前776年の第1回大会までになる.最後の古代オリンピックが開催されたのは西暦393年の第293回オリンピックとされる.その後,オリンピックは,1500年を経てピエール・ド・クーベルタン男爵(フランス)の「ルネッサンス・オリンピック」の提唱で,近代オリンピックとして復活した.[1]
(注2)NHK大河ドラマの「いだてん-東京オリムピック噺-」として2019年1月から12月まで放送された中で,前半の主人公が金栗四三で,六代目中村勘九郎が演じていた.第5回ストックホルム大会は1912年7月に開催されているが,大会中,金栗は猛暑下のマラソンレース中に失神し,民家で介護されてゴールできなかった.しかし,大会委員会に棄権を申し出ていなかったため,行方不明の状態になっていたことが,1967年3月にストックホルムオリンピック開催55周年記念式典の際に明らかにされた.この記念式典の委員会が,金栗を招待し,金栗自身が競技場でゴールテープを切ることで,54年8ヶ月6日5時間32分20秒3で,世界一遅いマラソン記録として歴史に刻まれことになった[2].
(注3)日本柔道や日本体育の父の別名を持つ.1911年(明治44年)に大日本体育協会(のちの日本スポーツ協会)を設立してその会長となる.1912年(明治45年)7月,日本が初参加したストックホルムオリンピックでは団長として参加した.1936年(昭和11年)のIOC総会で,1940年(昭和15年)の東京オリンピック招致に成功した.スポーツという概念を日本に定着させ,東京高等師範学校(現筑波大学)に体育科を創設し,スポーツの指導者育成に貢献した.
(注4)アメリカは1917年4月,ドイツに宣戦布告し,連合国側として第一次大戦に参戦した.アメリカの参戦により連合国側の勝利が決定づけられた.「 14か条の平和原則」は,1918年1月,ウィルソン大統領が,アメリカ連邦議会での演説のなかで発表したもので,戦後体制構築のために提唱し,これによってドイツの降伏が引き出されたとされている. ウイルソンは,ジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号を受け,同大学長やアメリカ政治学会の会長を歴任し,1913年,第26代米大統領セオドア・ルーズベルトと第27代大統領ウィリアム・ハワード・タフトの大統領経験者の対立候補を破って,第28代大統領に就任している.国際連盟設立への貢献によってノーベル平和賞を1919年に受賞している.彼の14か条の平和原則は,ウラジーミル・レーニンが1917年10月にロシア革命(10月革命)において発した「平和に関する布告」(注5)に対抗して出されたものとされている.
(注5)「平和に関する布告」はウラジーミル・レーニン率いるソビエト政権の第2回全ロシア・ソビエト大会で発表された布告である.その内容は,「無賠償」,「無併合」,「民族自決」に基づく即時講和を第一次世界大戦の全交戦国に提案したものであり,新生ロシア(注6)最初の対外政策であった.
(注6)帝政ロシアでは日露戦争(1904〜05年)の最中にロシア革命が起きた.この革命は1905年1月の「血の日曜日」事件を発端にして1907年6月まで続くロシア第一革命と,1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である.特に史上初の社会主義国家樹立につながったことに重点を置く場合には,10月革命のことを意味している.次いで,第一次世界大戦中のロシアで1917年に発生した革命運動が,ロシア第二革命(2月革命)と呼ばれ,ロマノフ朝による帝政ロシアが崩壊し,1922年12月のソビエト連邦(〜1991年12月)の設立につながった.
(注7) 対華21ヶ条要求は第二次大隈重信内閣が,中華民国の袁世凱政権に対して行った日本の中国における権益拡大要求で,以下の5号,21箇条からなっていた[6].
  第1号:山東省内のドイツ権益の継承,
  第2号:日本が南満州・東部内蒙古に持つ権益の拡大,
  第3号:漢冶萍公司(カンヤヒョウコンス)の日中共同経営,
  第4号:中国沿岸部の外国への不割譲,
  第5号:中国政府に日本人の政治,財政,軍事顧問を置くこと,日中警察の一部合同など.
   この内,第5号は希望条項として,時の加藤高明外相が中心となって作案されたが,中でも第2号を最重視したとされる[6].結局,第5号は中華民国から拒否された.
(注8)日本憲政史上初めての国会,事業者からも独立した調査委員会が設置され,約6ヶ月間の調査結果がまとめられ,公表された.委員会活動のキーワードを「国民」,「未来」,「世界」と定め,その使命を以下の3点に置いている.
々駝韻砲茲,国民のための事故調査,
過ちから学ぶ未来に向けた提言,
世界の中の日本という視点(日本の世界への責任).
  その上で,朝河貫一の「日本の禍機」を引用し,「変われなかった」ことを原因とし, 日本人の「思いこみ(マインドセット)」の変革を改めて強調したメッセージを黒川清委員長がアピールしている.報告書は642ページからなっている.
(注9)1940年開催予定であった第12回夏季競技大会は,日中戦争で辞退,1964年の第18回東京大会では, ヴェトナム戦争が続いていた中で,大会期間中の1964年10月16日に中華人民共和国(1949年〜)が核実験を行っている.そして,今回の第32回夏季競技大会は,中国から発生したとされる新型コロナウイルスによる感染症のパンデミックとの戦いの中で,1年延期をしての開催となった.

参考文献・資料
[1] 日本オリンピック委員会,オリンピックの歴史(1)-オリンピックの誕生-,https://www.joc.or.jp/sp/column/olympic/history/001.html ,2021年9月20日アクセス
[2] 時事通信社,近代オリンピックとその時代,日本が初参加,
https://www.jiji.com/jc/v2?id=20091002olympic_games_history_05 ,2021年9月20日アクセス
[3] 笹川スポーツ財団,オリンピックを知る-1.オリンピックの歴史年表・年表・出来事など-,https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/olympic/01.html ,2021年9月20日アクセス
[4] 牧野雅彦,ヴェルサイユ条約―マックス・ウェーバーとドイツの講和,中央公論新社 (2009)
[5] 政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所,日本政治・国際関係データベース, 日羇巖狃Д柾陬好諂衞鵝ι輹さ陳蟒顱碧無条約,日羇嵋州に關する条約・附屬議定書), 1905年12月22日,
https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/pw/19051222.T1J.html ,2021年9月23日アクセス
[6] 奈良岡聰智, 対華二十一ヵ条要求とは何だったのか -第一次世界大戦と日中対立の原点-, 名古屋大学出版会 (2015)
[7] 朝河貫一,日本の禍機,講談社(1987)
[8] 武田徹, 梅田秀男, 佐藤博幸, 100年前からの警告-福島原発事故と朝河貫一-, 花伝社/共栄書房(2014)
[9]  国会事故調「東京電力福島原子力発所事故調査委員会」,調査報告書,平成24年6月28日,
https://www.mhmjapan.com/content/files/00001736/naiic_honpen2_0.pdf ,2021年9月23日アクセス

以上
令和3年9月

先頭へ