コラム KAZU'S VIEW

2021年02月

日本女子の世界的活躍が今の国難を乗り越えるきっかけになる

コロナ禍でのTokyo2020夏季オリンピック実施の判断に関する意思決定のタイミングが間近に迫ってきた.その矢先,Tokyo2020組織委員会会長の交代劇で橋本聖子新会長が誕生した.活躍を期待したい.また,水泳の池江璃花子選手の現役復帰と東京都OPEN水泳競技大会50mバタフライでの優勝[1],さらに,テニスの全豪オープンで2回目の優勝を果たした大坂なおみ選手の話題が,私たちの心を震わせてくれた.彼女達の活躍が,今の日本に明るい希望を与えてくれている.

日本の歴史上,最初にして最大の女性活躍の代表は天照大神(アマテラス オオミカミ)であろう.この天照大神を祭神とし,国家の宗廟(ソウビョウ:天皇家の氏神)として伊勢神宮を整備し,諸神の最高神に位置づけたのは,第40代天武天皇(大海人皇子:オオアマ ノ ミコ)である[2].天武天皇と言えば,日本古代史最大の内乱と言われる壬申(ジンシン)の乱(672年)で甥である第39代弘文(コウブン)天皇(大友皇子*注1)を打倒し,673年に即位している.これと同時に立后(リッコウ)したのが,鵜野野讃良(ウノノサララ:645-702年)であり,後の第41代持統天皇(690-697年)である.これまでに我が国には女帝が10代,8名(内,一度譲位し,再び即位する「重祚(チョウソ)」を行った方が2名*注2)いるが,持統天皇は女帝として推古,皇極(斉明)に次ぐ3人目に当たる.その業績は国内外に大きな影響を与えて来たものが多い.7,8世紀の東アジアにおける女帝についてはこれまでにコラム[3],[4]で取り上げてきている.この2世紀,200年間は,10代女帝の中の8代(推古〜称天皇)までがいるという特筆すべき期間のように思われる.持統天皇の祖母に当たる斉明(京極)天皇は,660年に滅亡した百済再興援軍を朝鮮に派兵し,自らも九州に赴く途中の661年に崩御した.この時,持統天皇も大海人皇子の妃として皇子と共に従軍している.斉明天皇を継いだ実子であり,かつ,持統天皇の父親の第38代天智天皇(668〜672年*注3:中大兄皇子;ナカノオオエ ノ ミコ626〜672年)は,4万人を超えると言われる海外派兵を行い,唐・新羅軍と戦った白村江(ハクスキノエ)の戦い(663年)に敗戦した.この敗戦は当時の日本の大いなる脅威となったことは容易に想像される.当時の日本を見れば,有力豪族が割拠し,その勢力均衡の上に大王(当時は天皇という呼称はなかったとされる)が象徴的に存在した状況の中で,中大兄皇子が中臣鎌足(ナカトミ ノ カマタリ)と組んで起こした乙巳の変(イッシ ノ ヘン:645年*注4)をきっかけとして中央集権国家としての日本国づくりに着手したばかりの時期であった.このような不安定な状況下で,唐という中華体制における宗主国に刃向かい,負け戦となった後には,当然,唐の勢力が極東の地におよぶことは当時の知識人には予見できたはずである.この脅威が,我が国を中央集権国家としてまとめ上げる勢いを強めたであろうことは想像がつく.このような時代背景の下に,天智,天武,持統の連携プレーが展開されたことになる.

改めて,持統天皇の業績を確認してみよう.国内的には,2つの視点があろう.1つは,皇位継承に関する変革とされる[2].従来は,天皇は死ぬまで在位,即位は30才以上,そして兄弟相承(原則として兄弟間で皇位継承するルール)であったものを,持統天皇は自ら697年に譲位(君主が存命中の間に,その地位を後継者へ譲り渡す行為)し*注5,孫である珂瑠(カル)皇子を年少天皇(文武天皇15才)として即位させた. 珂瑠皇子は,持統天皇の実子である草壁皇子(クサカベ ノ ミコ)の実子であり, 孫に当たる.兄弟相承のルールであれば,当時皇太子であった草壁皇子の急逝に伴い,その兄弟(天武天皇の皇子)の中から皇位継承者を出すべきところ,草壁皇子の実子であり,孫に当たる珂瑠皇子を皇太子とした上,東宮坊制度(皇太子専用の役所)を作り,697年に第42代文武天皇として即位させた.これは天武-(草壁)-文武という直系(子孫)相承への変革を意味する.もう1つは,中央集権国家としての日本国形成の経緯として大化の改新という国家事業を資料化したことであろう.夫の天武天皇が国史(皇室史),正史(東アジア史)として編纂を指示した古事記(天武天皇が国史編纂を稗田阿礼に指示し,誦習したものを元に太 安万侶が712年完成)と日本書紀(諸説があるが天武天皇が編纂指示し,720年完成)に対し,万葉集という和歌集の巻1の前半(持統万葉)を編纂させた[2].これらは,父親の天智天皇,夫の天武天皇と共に成就させた中央集権国家の確立を後の世に知らしめる意図があったと考えられる.一方,海外に対しては,自ら即位した690年と同年に中国における唯一無二の女帝として即位した則天武后(ソクテンブコウ)に対し,国名を倭(ヤマト)国から日本(ヤマト)国に変更させることを認めさせた*注7.この時期に大王(オオキミ)から天皇(スメラミコト)という呼称の変化も見られたとされる[2].この呼称の変更の背景には,唐の皇帝の属国としての長である王ではなく,独立した国の長としての位置づけを対外的に明確にする意図があったとされる[2].

1400年前の日本を取り巻く国際環境(東アジア世界)の中で,女性活躍の系譜を断続的にたどってみた.日本の女帝制度は中国モデルとは異なる特殊性を持つという[6].これは東アジアで最初の女帝である推古天皇以降,男系皇位継承が途絶えた危機を乗り越えるための方策として誕生したが,7,8世紀の間に女性の創意工夫により母系継承(持統-(草壁)-文武)が形成されたという見方もある.これはアマテラス神話とも呼ばれる[6].しかし,多くの日本人は男系継承として皇位継承を捉えているのが今日の一般的認識であろう.これは,キリスト教におけるマグダラのマリア,すなわち,イエスの後継者は男性のペテロではなく,イエスの妻(マグダラのマリア)が正当な後継者であるという話[5]と共通性がある.男女共同社会づくりには先人達に学ぶべきところが多い.コロナ禍を乗り越え,明るい未来づくりを共通の目標として男女で共有し,性的特性の違いを相互理解した上で,信頼と共創の和を広げることで今の国難に取組むことができないか.日本女性の頑張りに,やまと男(オ)の子はどう応えるのか.

*注1:第39代弘文天皇は1870年(明治3年)に,歴代天皇に列せられたが,実際に大王に即位したかどうか定かではない.671年に父親である第38代天智天皇から太政大臣に任じられている.壬申の乱で叔父の大海人皇子に破れ,自殺している.享年24才.
注2:日本における女帝の歴史には,以下の8名,延べ10代がある.
  第33代推古天皇,第35代皇極/第37斉明天皇(重祚),第41代持統天皇,第43代元明天皇,第44代元正天皇,第46代孝謙/第48代称徳(重祚),第109代明正天皇,第117代後桜町天皇.
注3:天智天皇の即位は,斉明天皇崩御の翌年662年とする記載もあるが,661年から称制(ショウセイ:君主が死亡した場合,次代の君主となる者,すなわち,皇太子や皇后が即位せずに執政を行うこと)として実質的な天皇業務を行っていたことから662年即位となっているが,正式な即位は668年という説を取っている[2].
注4:中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変である.これを契機に,諸豪族の合意形成による国家統治から天皇を中心とした中央集権国家形成が始まり,701年の大宝律令完成までが大化の改新と呼ばれる日本国家形成時代となる.なお,中臣鎌足はその貢献により天智天皇より藤原の姓を賜った.藤原鎌足(フジワラ ノ カマタリ)という呼称は,平安時代に隆盛を極めた藤原一門の祖としての位置づけになる.
注5:この譲位は,持統天皇の即位の事情とも関連する.686年,夫の天武天皇が崩御してから690年の即位の間,皇后として称制(注3)を行っていた.これは,実子である草壁皇子を皇太子(25才)として即位可能な30才まで待つ戦略と言われている.しかし,689年に草壁皇子が28才で急逝した.その時,草壁皇子には珂瑠皇子(持統天皇の孫)がいたため,これを皇太子とし,皇位継承させることを目論んで自ら即位したとされる[2].
なお,最初の譲位は持統天皇の祖母である皇極天皇とするのが一般的な認識とされている[6]が, 瀧浪[2]は皇極天皇の譲位は以下の点で持統天皇の場合とは異なるとし,持統天皇の譲位が制度化された最初であると主張する. 瀧浪の主張の前提は,女帝の実子は皇位継承対象から外されることが当時の皇位継承のルールであったという点である(*注6).これが乙巳の変により,ルール変更され,女帝の実子も皇位継承権を得たという認識である.第35代皇極天皇は,弟を第36代孝徳天皇として即位させ, 孝徳天皇を介して中大兄皇子を皇太子とした上で,重祚して第37代斉明天皇を経て,第48代天智天皇へ繋げている.これに対して,持統天皇は,自らの孫に直接的に皇位を継承させている点にその差異を見出している.
注6:推古天皇を最初とする女帝制度が,女性天皇即位が立太子(この時は, 厩戸皇子:ウマヤド ノ ミコ,すなわち,聖徳太子)とセットとして成り立つことを前提としていた制度であったことがことから,女帝が男帝への繋ぎ的機能を持たせたことから,女帝の実子は皇位継承者対象から外される,と帰結されるとしている[2].
注7:702年に粟田真人(アワタノ マヒト)を執節使(シッセツシ)として遣唐使を派遣した.その際に,中国(唐)皇帝(則天武后)宛てに国名変更の書簡を託した.しかし,真人の帰国(702年)を待たず46才で他界した.

参考文献・資料
[1] 池江璃花子オフィシャルサイト, www.rikako-ikee.jp,(2021.2.23アクセス)
[2] 瀧浪貞子,持統天皇-申の乱の「真の勝者」-,中央公論新社(2019)
[3] 石井和克,2010年01月「日本と朝鮮半島の2000年史に見る女帝による日本改革の歴史」, https://wwwr.kanazawa-it.ac.jp/ishii/column.cgi?id=77(2021.2.20アクセス)
[4] 石井和克,2010年11月「平城京遷都から1300年の歴史に見る日本国のルーツ」, https://wwwr.kanazawa-it.ac.jp/ishii/column.cgi?id=87 (2021.2.20アクセス)
[5] 石井和克,2010年02月「女人(ヨインチョナ)とダビンチコードに見る時代トレンド」, https://wwwr.kanazawa-it.ac.jp/ishii/column.cgi?id=78 (2021.2.20アクセス)
[6] 平山朝治,天皇制を読み説く機母性原理と女帝の進化,筑波大学経済学論集第52号,pp2-55(2004)
以上
(令和3年2月)

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