コラム KAZU'S VIEW

2019年08月

今年のお盆はいつもと違った空間と時間を過ごした

8日(木)に68回目の誕生日を孫3人を含めた家族に祝ってもらった.いつもならその後,故郷の山梨に帰省してお盆を過ごす事が通例であった.しかし,今年は家内が直前に体調を崩し,自分も少々のどの痛みや微熱を感じていた.加えて大型台風20号がこの期間に上陸する可能性が高いという予報が出ていたため,山梨への移動は中止し,金沢で過ごす事とにした.お盆を金沢で過ごすことは金沢に来てから初めての経験だった.幸い,金沢での台風の影響は大きなものではなかったが,夫婦の体調は最悪の状況であった.
 お盆という文化は基本的には仏教における「盂蘭盆会(ウラボンエ)」にあるとされるようだ. 仏説盂蘭盆経(ブッセツ ウラボンキョウ)によると,釈迦の内弟子である目犍連(モクケンレン)の母親が餓鬼道に落ち,これを救う方法を目犍連が釈迦に問うた結果が,多くの僧侶・尼僧に供物をささげて供養を行うことであった.その実践によって, 目犍連は母親を極楽浄土へと導くことが出来たと言う話が示されているらしい.この餓鬼道の苦しみがまるで「逆さ吊りにされたかのようなもの」だったとされたため,この苦しみを意味するサンスクリット語の「ウラバンナ」という言葉を日本語表音化したものが盂蘭盆会という言葉になったとされる.目犍連が僧侶・尼僧に施しを行なったのが,彼らの修行期間が明けた夏の初め頃とされていることから,7月の15日前後がお盆の時期となったと言われている.一方,暦の視点からは1年を2期に分け,その期首をお正月とお盆とし,初春と初秋の満月の日に祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流する行事があったことから,初春のものが祖霊の年神としての神格が強調されてお正月の祭,初秋のものが盂蘭盆の仏教行事として祖先供養を行う風習が日本では確立されたと考えられている.伝統的には旧暦7月15日にあたる中元節の日に祝われていたが,日本では1873(明治6)年1月1日から新暦のグレゴリオ暦が採用されたため,多くの年中行事がこの変更によって季節に合わなくなったり,新暦の7月15日頃が農繁期にあたる地域があり,支障が出たため地方によってお盆の時期に違いがみられるようになった[1].金沢では,新旧2回のお盆行事が行われているようであり,その際,墓参りにキリコと呼ばれる灯明(灯籠)の機能をシンボル化したものを持参し,墓に飾る風習が見られる.紙と木から作られる伝統的な箱キリコと呼ばれるものは中にロウソクを立て,灯火をたく.白地の紙には「南無阿弥陀仏」と書かれている.お盆の頃になるとスパーの店先に並び,200円程度で販売されている.最近では伝統的な箱キリコ以外にも,地元の割り箸屋さんが考案した板キリコという構造が簡単で安価のものなど,いくつものバリエーションが出て来ている.私の故郷の山梨では,お墓や家の前で火を焚く風習が見られるが,いずれも精霊がこの世(我々を中心とした現世)に戻る目安やあの世(極楽浄土)に戻る帰り道を照らす機能を有するものであろう.金沢のキリコは送り盆としての16日にキリコに一斉に火を点すと共に,数あるお寺(金沢には寺院群が密集する地区が3カ所ある。寺町には70程の寺院群、そして小立野寺院群の30に卯辰山山麓寺院群の15である)から読経や鐘・銅鑼の音などが奏でられる催しがあると聞いたが[2],今回,それを体験する機会を逃し,家で伏せっていたのがなんとも残念であった.
日本で初めて行われたお盆行事は,第33代推古天皇(在位: 593-628年)が行なった七月十五日斎会(サイエ)であると言われているが検証されてはいない. 斎会とは僧や尼を招き食事や様々な仏事を行うものであり,仏教思想の1つの行動様式である.日本には,仏教伝来以前から御霊/魂(ミタマ)祭りなど,祖先の霊を迎える儀式が存在した.推古天皇の時代は日本がその国の形を作りつつあった時代で有り,それまでの氏族割拠の政治体制から中央集権化する動きが出てきた頃である.そのため,既存の日本の精霊安泰を重視する思想と当時の最先端の文明の基礎となっていた仏教思想を統合化し,政治的に利用して権威化することが図られたと推測される[3].従って,お盆は庶民文化としてではなく朝廷で政治的儀式として始まったと言える.その後,武家,貴族,僧侶,宮廷などの上層階級間での行動様式として継続されていたものが,一般庶民の生活の場に広まったのは江戸時代になってからとされる.その契機は,江戸時代に入り町人が財政力をもち,仏壇の普及やお盆提灯に使われるロウソクの大量生産が可能となった環境下で.元々日本人が持ち合わせていた祖先を供養する心とが結びつき,今日のお盆文化に受け継がれて来たようである.これら日本人の行動様式の変遷の一方で,その精神的背景も従前の日本の精霊思想,仏教そして中国思想の1つである道教などが渾然一体となり日本独特のお盆思想を形成してきている.例えば,あの世とこの世の行き来を「地獄の釜が開く」機会を利用して行うという意味づけを聞くことがある.この考え方は,釜の蓋の番人である鬼の有給休暇期間中は釜抜け自由であるが,鬼が業務復帰するまでに必ず釜に戻る必要があるという,地獄とこの世との双方向性を持っている.これは,道教思想に基づく考えとされる.一方,仏教では現世を去った(死亡した)者は,49日かけて地獄を巡り,生前の行いを反省して極楽浄土へ向かう,つまり,地獄は極楽浄土(天国)へ向かうために必ず通る行程であるとの考え方をするようである.この2つの思想を日本的に融合して日本のお盆思想は形成されたようである.
 日本のお盆文化の歴史を辿ると1000年以上の時間をかけて先祖崇拝に対する精神的,行動規範的変化を伴って継承されて来ていることを伺い知ることが出来る.1年を2期に分け,その区切りをお正月とお盆という行事で認識することは,この2つの行事に付随する中元と歳暮というこの世の者同士の相互供養の行動様式にも見いだせる.しかし,この機会がお盆の場合,昭和20年8月15日の終戦の日(大日本帝国政府の公式的ポツダム宣言受諾の降伏文書調印は1945年9月2日)と重なるところに一種独特の意味を感じる.そのため,お盆時期には太平洋戦争にまつわる特集やドラマを目にすることが多くなる.今年は,「日本のいちばん長い日(2015年8月8日劇場公開)」,「幻の巨大空母:信濃-乗組員が語る大和型不沈艦の悲劇」をTVで見たが,一種のむなしさを感じた.戦後74年となるが,その源流は150年前の明治維新(明治改元1868年10月23日))に遡れる.当時の尊皇攘夷思想はその後,民主主義とアジア主義(八紘一宇思想)に展開される[4].その帰結が敗戦になったという見方も出来よう.このところの日本と近隣諸国との関係を概観すると,互いの祖先崇拝を共通基盤とした歴史認識に立った問題認識を互いに行うことの必要性を感じる.雨の宵闇に揺らめくキリコの灯明の揺らめきが,なんとなく心配げにあの世に戻る精霊の歩みのように見えるシーンが微熱のある脳裏を横切った.
以上
[1] 終活ねっと, お盆の歴史とは?日本ではいつから?
https://syukatsulabo.jp/obosan/article/7901 (2019年8月22日)
[2] ISHIKAWA19, 金沢市のお盆はいつ?「箱キリコと板キリコ」独特な風習の由来や意味とは!-,https://ishikawa19.com/kanazawa/life-culture/obon-when-roots/ (2018)
[3] 古市 晃,四月・七月斎盛会の史的意義-七世紀倭王権の統合論理と仏教-,古代文化,59(3),pp.376-393(2007)
[4] 大川周明著, 中島岳志編・解説, 頭山満と近代日本, 春風社(2007)
令和1年8月

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