コラム KAZU'S VIEW
2019年06月
父の日の由来-今問われる父親の社会的価値-
気分的に長く感じた5月を過ぎ,6月を迎えて心に残ったものは2年間努めた学会会長の最後の事業としての総会と,のんびり1日を過ごした父の日であった.毎年,父の日には家族から贈りものをされるが,自分でその感謝の意味を考えたことは余りなかった.父親とは何か?その社会的役割は何か?の答えをすぐには思いつかない.それだけ,これまでに父親としての課題認識がなされていなかったのである.
自分の父親の記憶を辿ると,子供の頃は怖さと権威の大きさが強く印象に残っている.6人兄弟の末っ子として育ったので,その程度は兄や姉の時ほどすさまじいものではなかったと兄姉から聞いたことがあった.現在では私を含め4男,5男の兄弟2人しか残っていない.自分で家庭を持った以降は,人間的に父との距離感が近づいたように思う.人間的な側面をその強さや弱さも含め受入れられる存在となった.中学時代から下宿生活をしていたことから親との距離感を物理的にも精神的にもある程度保ち得た環境があったせいかもしれない.父親が起業した事業を引継ぎ,1代で地元有数の会社に成長させ,市議会議員議長や業界団体会長などを歴任し,地元からの信頼も厚い存在であった父親の姿を身近で見て,その価値観や行動様式を無意識の内に身に着けていたことを,今更にして思うことが多い.父がこの世を去って20年以上の年月が経ったが,その距離感は徐々に遠ざかって行くものの,自分自身の深い,無意識の世界にその存在感があることは確かである.
6月の第3日曜日が「父の日」となった経緯は,日本では1981年に設立された「日本ファーザーズ・デイ委員会」(http://fdc.gr.jp/)がその普及に大きく貢献したとされている.その起源は1909年にアメリカ・ワシントン州スポケーンのソノラ・スマート・ドッド(Sonora Smart Dodd; ジョン・ブルース・ドット夫人)が,男手1つで自分を含む5男1女の6人の子供を育ててくれた父親ウイリアム・ジャクソン・スマート(William Jackson Smart)を讃えて, 教会の牧師に父親の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけと言われている.ちなみに,母の日は1908年からアメリカでは行われていたという.末っ子だった彼女が幼い頃,南北戦争(1861〜1865年)が勃発し.父ウィリアムは召集され,彼女を含む子供6人は母親が育てることになる.しかし,母親は過労が元でウィリアムの復員後まもなく亡くなった.ドッド婦人が16才の時であった.その後, 父親のウィリアムは男手1つで6人の子供を立派に成人させ, 1919年に77才でこの世を去った.最初の父の日の祝典は,1910年6月19日にスポケーンで行われた[1].1916年,アメリカ合衆国第28代大統領(1911〜1913年)ウッドロー・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson)は,スポケーンを訪れた際に父の日の演説を行い,これにより父の日が全米で広く認知されるようになったという[1].その後, 1966年,ジョン.J.ケネデイ-の後を継いだ第36代大統領(1963〜1969)リンドン・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)は,父の日を称賛する大統領告示を発し,6月の第3日曜日を父の日に定めた.1972(昭和47)年になり,アメリカでは正式に国の記念日に制定されることになった.ドッド婦人が6人兄弟の末娘であった境遇が末っ子という自分の境遇と重なり,彼女のエピソードには親しみを感じる.しかし,その一方で娘と息子という立場の違いにも興味を覚える.
動物の世界を見渡して父親の役割と行動を眺めてみる.鳥類の父親は比較的父親業をまじめにやっている種類である.ツバメをはじめとしてオス鳥は,エサの幼虫をヒナ鳥に頻繁に運んでくる.また,南極の皇帝ペンギンのオスは,暗く厳しい冬の期間中,卵を足とお腹の間で温め続ける.その光景はよく目にする.これに対し,哺乳類では,父親の子供に対する行動はきわめてまれなようだ.霊鳥類と言われ,人間に最も近いチンパンジーやボノボは父親としての行動はほとんどとらないという[2].その点,人間の父親行動は,霊長類のなかでは特異な現象とされる. 子どもに対する父親と母親の役割分担については,最近の社会現象としてイクメンパパなる言葉が一般的になっている. 多分,私が子どもの頃とはずいぶん変わって来ているように思う. 2014年9月のコラム「育爺(イクジイ)に見るこれからの日本人の人財育成」では祖父の立場での一考を試みたが,改めて人材育成について考える機会だった.このコラムを書くに当たり父親,母親の役割に関する資料を探しが,その中で両親の我が子に対する価値観の違いを端的に表現している言葉として小倉[3]が提示していた内容が強く記憶に残った.すなわち,母性では基本的に「我が子は良い子」に対し,父性は「良い子は我が子」であるとしている.元々,母親と子供は1体であったものが出産により個々別々の個体として分化したという経緯を見れば,母親にとっては子供が自身と一体化した存在であり,子供からすれば子宮にいた頃の安心・信頼感を共有できる唯一の存在という関係が形成されているのであろう.その点,父親は我が子といえども別々の個体として認識し,一定の距離感を持って接する関係性を持つことになる.ここに我が子が社会という自分とは異なる存在として最初に出会う,身近な人間となり得る.父親の存在が,子どもとしての個人を意識させ,自我の形成に目覚める機会の1つになり得る.私が父親からもらった遺産は競争心であり,母親からのそれは忍耐心であると思っている.前者は社会に対する攻め,後者は守りの姿勢とも解釈出来る.自分の受け継いだモノを子に引き継ぐ年齢になった事を様々な場面で自覚させられることが多くなって来ている.この場合の「子」とは遺伝的意味[4]だけでなく社会的な世代交代の意味を含む.第2の人生はこの父親の社会価値の創造という問題に取り組む事になろう.制度疲労を起こし,未来の夢がなかなか描けない我が国に新たな父親像をどのように作り上げるか,これまでの父親業を怠けてきた身に再度鞭を当てる必要性を感じている.
参考文献・資料
[1] FDC 日本ファーザーズ・デイ委員会,父の日の起源,http://fdc.gr.jp/about-fdc/,2019.6.19
[2] 京都大学霊長類研究所,チンパンジー・アイ : 心の進化をさぐる, https://langint.pri.kyoto-u.ac.jp/ai/ja/k/120.html,2019.6.25
[3] 小倉げんき,父親は母親になれない2008-04-06 22:33:12, https://ameblo.jp/oguragenki/entry-10086189313.html,2019.6.25
[4] 石野史敏,遺伝子から見る父と母,源流,Vol.1999,NO.1,pp.5-11(1999)
以上
令和1年6月