コラム KAZU'S VIEW
2019年03月
平成という時代の30年の意味を考える−Part2:海外から見た日本−
2月のコラムでは,平成を主に国内の視点で見てみた.今回は,外から見た日本の平成30年間を考えてみたい.その方法として私の海外渡航体験に基づく自分史から辿ってみる.
私のサイトにある海外出張履歴を見ると1981(昭和56)年からとなっている.この出張記録は私が博士課程に在学中に初めて国際会議で発表するためのものであった.その会議は当時ユーゴスラビア連邦人民共和国のノヴィ・サド(Novi Sad)という美しい町で開催された第6回International Conference on Production Research(ICPR)であった.しかし,ユーゴスラビアは平成2(1992)年に崩壊し,現在ノヴィ・サドはセルビア共和国に属している.この出来事はその後の自分に大きな影響を与えた.1つは,会議終了後,イタリア,バチカン市国,スイス,フランスと1週間ほど1人旅をして異文化,異言語コミュニケーションを体験し,海外を通じて日本を見ることに興味を持つきっかけになったこと.ICPRという国際会議には,この大会を皮切りに2017年のポーランドのPoznanで開催された第24回大会まで連続して参加してきたことが私の最大の財産である友人ネットワーク作りの根幹になった.生まれて初めて海外に出かけたのは1972(昭和47)年の大学2年生の時にインドに建築と都市計画(シャンデイガール)の見学を目的にしたものであった.この体験でインド文化にショックを受けた記憶はあるが,旅行気分が中心であった.1981年以降,71回海外に研究および会議のために出張してきたが,昭和時代が13回,平成に入って30年間で58回になる.この58回の体験から平成という時代を自分なりに描いて見る.渡航先を地域別に見ると,アジアが最も多く8カ国,延べ29回,次いでヨーロッパが13カ国,22回,南北アメリカが3カ国,4回,中近東(イスラエル)2回,オーストラリア1回となっている.最も訪問回数が多かった国は中国で6回,次いで台湾とタイがそれぞれ5回を数えるが,回数の多さではなく印象や記憶に強く残る思い出を以下に時系列的に列挙していく.
平成元(1989)年9月に当時西ドイツの西ベルリンで会議が開かれた際に東ベルリンのバスツアーを体験した.その時,初めて見たベルリンの壁が帰国2ヶ月後の11月に崩壊した.そして,翌年8月にドイツを訪れた際に訪問したベンツの工場でドイツ人との意見交換の中で30代と60代の世代間で東西ドイツ統合に対する認識ギャップの大きさに驚かされた(2004年4月「ナショナルギャップからジェネレーションギャプヘ」参照).このことは,最近その可能性が高まりつつある南北朝鮮統一問題についても昨年ソウルを訪れた際に話した韓国人との会話の中で似たような感覚を覚えた.平成3(1991)年10月に初めてイスラエルを訪れた際には,空港での入国・出国審査での2時間を超える安全チェックと異なる審査官による同じ質問への対応,湾岸戦争終了直後のエルサレム市内を歩く女性が肩に小銃をかけて買い物籠を持って歩く姿を通じて,安全に対する考え方のギャップを感じた.再訪した平成7(1995)年はイスラエルに平和が訪れ,開催された会議でも平和のための投資や施策に関する発表が多数あったが,帰国後,間もなく,平和の象徴とされたイツハク・レビン首相が暗殺されたというニュースを聞くこととなった.平成7(1995)年に起きた地下鉄サリン事件に象徴される安全な国神話の崩壊,その安全意識は今,飲み水,食品や環境さらには情報に至る様々な面で変革に直面している.平成3(1993)年に初めて中国の合肥(Hefei)を訪れてから平成12(2000)年,平成14(2002)年,平成21(2009)年,平成23(2011)年という間の中国の変化を上海,北京といった都市を通じて感じ,学んだ事は2004年3月「イスラエル人と中国人について」および2009年8月「上海は40年前の日本の勢いと先端技術の混在する不思議な空間だった」のコラムに記載したように心的,物的,経済的な3つの価値創造を技術系政治家と社会システムの科学技術が支えている点にあると思われる.平成21(2009)年まで日本が世界第2位であったGDP世界ランキングは平成22年(2010)年以降その座を中国に明け渡した.その後,日本と中国の格差は平成29(2017)年時点で2.46倍にまで広がっている[1].経済成長モデルとしては一見して日本モデルと類似していると2000年および2002年に感じていた1面,技術を基礎とした政治リーダーの存在とその社会科学を含めた科学技術政策は何となく日本とは異なった点であるこということも意識のどこかにあった.その10年後にGDPの座を日本が譲り渡すという結果になった.日本でも, 鳩山由紀夫内閣(ハトヤマ ユキオ)内閣が平成21(2009)〜22(2010)年, 菅直人(カン ナオト)内閣が平成22(2010)〜23(2011)年と技術畑出身の政治リーダーが登場する機会があったが,その政治基盤の弱さや東日本大震災という天災に伴う諸政策の問題から期待を達成出来ず,その課題は現在も原子力行政や米軍基地問題として続いており,解決の糸口さえ見えていない.最後は平成5(1993)年,平成13(2001)年,平成25(2013)年に訪れたフィンランドでの体験になる.2004年7月「北欧と日本の携帯事情」と2013年6月「12年ぶりのフィンランドで見つけた瑠璃虎の尾という紫の花」のコラムで記述した.この国からは携帯電話という技術面と多神教的文化面で学びがあった.携帯電話の世界で日本とフィンランドとうい国名は最近聞かなくたったが20世紀から21世紀に切り替わる頃はこの2つの国の名は頻繁に現れた.携帯電話は端末名ではスマートフォンに換わり,その出荷台数の2018年第3四半期世界ランキングではサムスン(韓国),ハーウェイ(中国),アップル(アメリカ)の順になっている[2].また, フォーブスによる通信業界の利益ランキングで見ると,AT&T(アメリカ),ベライゾン(アメリカ), チャイナモバイル(中国), ソフトバンク(日本)の順になっている.この10年間で携帯に関する世界は大きく変わった.一方,日本でもおなじみのムーミンは森の妖精である.森に対する認識は日本人の認識と似ている.多神教の文化を背景としていると考えられる.妖精はヨーロッパにおいて数少ない多神教のケルト文化においては神様の1種である.そんなイメージが日本人の共感を得て日本で身近なアニメキャラクターとして定着している.平成29(2017)年に埼玉県飯能市にフィンランド以外で初めて開設されたMetsä(メッツァ:森)はムーミンワールドと言われるテーマパークである.
このところTV番組で平成を振りかえる様々な番組が特番的に放映されている.見る度に時間を超えてその当時の思い出がわき出てくる.平成の間に訪れた26カ国の訪問から数知れぬ気づきと共感を得ることが出来た.その中で主観的に記憶に強く残るドイツ,イスラエル,中国そしてフィンランドの思い出から自国の問題と重ねてみた.世代間ギャップの問題は携帯などのICTがより生活に身近になることで安全性という視点からもコミュニケーションのあり方を考える必要性を感じる.また,ICTは経済や文化といった面で従来の地域性を乗り越えた影響を益々強めて行くことは想像に難くない.かつての日本の経済成長モデルはもの作り技術を基盤とした.これに対し,中国も経済成長モデルは情報技術を基盤としたモデルになっているように思う.その背景には海亀戦略という国際的な規模での人材育成国家戦略がある。情報技術は科学技術と社会科学を結びつけるのに有効な技術でもある.その意味で政治の世界に技術の素養も持った人がもっと出てきて良いように思う.その上で,情報技術を活かす製品やサービス創りで目指す価値は,縄文土器に見られる機能とは別の儀礼的,象徴的,精神的な価値[4]といった視点をもつ文化的生産物とでも言うようなものも1つではなかろうか.この国を和魂和才に戻すために去りゆく時代を振り返り,新たに迎える時代に向けた課題が平成の30年間の意味になる.
参考文献