コラム KAZU'S VIEW

2018年10月

沖縄で今起こっている事はこれからの日本の未来に繋がる

沖縄知事選で自民党の「勝利の方程式」が何時もの解を得られなかった.この方程式は選挙というゲームを対象とし,選挙戦の勝ちパターンとして自民党と公明党の連携がその内容であった.なぜ,この方程式が解を求められなくなったのか?
沖縄が日本に復帰したのは1972年(昭和47年)5月15日である.第37代米国大統領リチャード・ミルハウス・ニクソン(Richard Milhous Nixon)と第63代内閣総理大臣佐藤榮作(サトウ エイサク:第61代から連続3期就任)との間で1971年に調印された沖縄返還協定に基づくものであった.これにより佐藤氏は1974年にノーベル平和賞を受賞した.
沖縄の名前の変遷を辿ると,流求→龍及(奈良時代の僧侶・行基が作成したとされる行基図)→琉球→「琉球國」となっており,その国号は1872年の日本政府による琉球藩設置(琉球王国の廃止)まで用いられた.その後,1879年(明治12年)の沖縄県設置となる.沖縄はかつて琉球王国(リュウキュウオウコク:1429〜1879年)と言われ450年間,琉球諸島を中心に存在した王国であった.外交的には貿易上の理由から,中国の明(1368〜1644年)および清(1644〜1912年)の時代を通じて中国を宗主国(ソウシュコク)とする朝貢国(チョウコウコク)の関係を維持した.その間,1609年の薩摩藩の侵攻以後は,薩摩藩による実質的な支配下に入り,豊臣秀吉の朝鮮出兵(1692~98年)では日本軍への食料供給拠点となった.明時代には沖縄地方を「大琉球」,台湾を「小琉球」とする区分もあったという.琉球王朝の歴史を見ると,12世紀,源為朝(鎮西八郎ミナモト ノ タメトモ)が現在の沖縄の地に逃れ,その子が琉球王家の始祖舜天(シュンテン:1166〜1237年)になったとされる.為朝は鎌倉幕府開祖の源頼朝(1192年征夷大将軍)の叔父にあたる.1429年,第一尚氏(ダイイチショウシ)王統の尚巴志王(ショウ ハシオウ:1372〜1439年)の三山(中山,山北,山南)統一によって琉球王国が成立したとされている.その後,1469年,尚円王(ショウエンオウ)が,第二尚氏(ダイニショウシ)王統を興し,この王朝は第3代尚真王(ショウ シンオウ)時代(1477〜1527年)に中央集権化を確立し最大領土を築き,19代,410年間(1469〜1879年)続いた.最後の国王第19代尚 泰王(ショウ タイオウ)は琉球藩設置に伴い日本の華族(侯爵)となっている.その後,沖縄の帰属問題は日本と清との間の国際問題となり,日清戦争(1894~1895年)の結果,日本の領有が確定したが,第二次世界大戦後,アメリカ統治時代(1945〜1972年:アメリカ世(ユ-))を経て,今日に至っている.沖縄の地政学的な特性が,多くの島々からなる地域の歴史に様々の環境を作り出してきている.「さとうきび畑」(寺島尚彦作詞・作曲)という歌の中にある,「むかし海のむこうからいくさがやってきた」,「あの日鉄の雨にうたれて父は・・」というメッセージは父母への鎮魂歌を通じて沖縄の心を伝えようとしているように思われる.
人間のDNAの遺伝子情報を解析することで人間の進化の道のりを分析する研究から日本列島人(ヤポネシア人:島尾敏雄の命名でラテン語の日本を意味するヤポニアと島の群を意味するネシアから造語された[1])をアイヌ人,ヤマト人,オキナワ人に分けて遺伝子情報の構造上の類似性を解析した結果から,アイヌ人とオキナワ人の類似性がヤマト人より近いという研究報告がある[1].アイヌ人は北,オキナワ人は南,ヤマト人は中央部という居住地の地理関係から,両極端の南北の関係が最も近い関係にあるという指摘は興味深い.縄文人と弥生人の混血が日本人を形成してきた事は多くの人が認めるところである.極東の島群ヤポニアに渡来した様々な人々が太平洋(穏やかな海)の東を見る世界観とは逆に,大西洋を渡り,アメリカ大陸の西にたどり着き、更に西進して極東にたどり着くとい世界観が日本の明治という地理的,時間的巡り合わせを創り出したのではないか.明治150年を迎えた現在の日本人と言われる大多数はヤマト人である。その日本人がアイヌ人とオキナワ人の心を改めて思い,現在の沖縄に起こっている事象を考えることは,これからの日本の100年後を考える良い機会となろう.

参考図書
[1] 斎藤成也,日本列島人の歴史,岩波書店(2015)
以上
平成30年10月

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