コラム KAZU'S VIEW
2018年05月
汽笛一声新橋を・・は西郷と大久保の確執、そして日本のネットワーク創りの試み
今年のNHKの大河ドラマ「西郷(セゴ)どん」は、明治150年の節目の企画ではないか。明治維新に立ち返り、この後の日本を考えるという政府キャンペーン[1]の臭いが鼻をつくが、史実である。150年前の我々の諸先輩の苦悩と成果をここで改めて評価することは今後の日本の行く末を考え、託す意味でそれなりの価値を感ずる。
西郷吉之助は、薩摩藩士である。日本の西南端に位置する地理的環境で、300年続いた徳川の時代を変革した藩主が島津家である。島津家のルーツは川岸に住み着き、川(水)を利用して成果を積み上げた家系らしい。鎖国という時代の中で琉球を通じて海外の情報や物資を扱い蓄財していたという。この藩から明治(または維新)の三傑(西郷、大久保、木戸)の2人が出ており、西郷と大久保はライバル関係にもなる。その象徴的な事件が日本の鉄道ネットワーク構築問題であった。大久保は日本の近代化、欧米列強に追いつき、追い越すために当時の最先端技術である鉄道を国内に張り巡らせ、ロジイステック・サプライチェーンの構築を狙う。これに対し、西郷が西洋文明の過度な導入に対するリスクを懸念し、大久保構想に反対の意思表示をする。この戦いは、西南戦争で終結するが、その経緯はかなり興味深い。
そもそも、幕末動乱の中心的プレーヤーである島津と徳川の確執は17世紀の初めの関ヶ原(西暦1600年)に遡る。当時の島津藩主であった島津義弘(ヨシヒロ/島津氏18代当主)は徳川家康の東軍に敵対する西軍に属していた。小早川の裏切りで関ヶ原の戦いは東軍勝利へと進む。敗戦の将となった義弘は大阪城に人質となっていた妻の宰相と嫁の命を救い、薩摩に命辛がら生き延びる。それから約300年後の1872年に新橋―横浜間に日本で最初に開通した鉄道開業式が行われ、明治天皇が乗車され、日本の文明開化の見える化がここで実現した。この企て、大久保をはじめとし井上勝らの仕掛けが用意周到に準備されていた。そしてこの列車には琉球公子(王子)の伊江朝直も最後の島津藩主の第12代島津忠義(タダヨシ/島津氏第29代当主)と同じ号車に乗っていた。正に呉越同舟であった。当時の薩摩と琉球の関係は16世紀以来の薩摩による琉球の実質的支配状況が続いていた。西郷吉之助が流罪にされた先は奄美大島(当時は単に大島と呼ばれていたらしい)であった。人生のどん底にいいた西郷を生き返らせたのは、元々琉球王国であった奄美の地であった。個人的には、奄美大島と言うと、大島紬を連想する。母親に大島紬で和服を作ってもらったことを懐かしく思い出す。島津はある意味で琉球地域から搾取によって経済的基盤を形成していたのではないかと、憶測される。
今日、ネットワークという言葉はかなり耳慣れたカタカナ用語である。物流ネットワーク、人的ネットワーク、情報ネットワーク、地域ネットワーク・・・・等など、枚挙に事欠かない。西郷と大久保の連携を壊し始めたきっかけが日本最初の交通ネットワークである鉄道に起因しているということは、現在、日本が世界に誇る新幹線ネットワーク並びに次世代のリニア-モーターカーネットワークに符合している点に知的好奇心がくすぐられる。相変わらず公共事業が国を動かす時代から抜け出せていない国に済むことは幸せなのか否か。改めて、「一身独立して、一国独立す。」[2]を思い出す。
[1] 内閣官房「明治150年」関連施策推進室、明治150年、
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/meiji150/portal/
[2] 北岡伸一, 独立自尊―福沢諭吉の挑戦, 中央公論新社,2011,pp.146-149
以上
平成30年5月