コラム KAZU'S VIEW

2017年09月

実学の意味を改めて教えてもらった石黒信由(イシクロ ノブヨシ)とは?

いつの間にか夏が過ぎ、虫の音が夜の泊まりが降りる頃に聞こえる頃になった。家内に誘われるまま、射水にある博物館を訪ねた。その博物館で初めて、石黒信由という人物の存在をしった。もともと、数学者(和算学者)の家系のようで、江戸時代に和算の極意を会得し、免許皆伝を許された人物らしい。和算は、関孝和(セキ タカカズ)がそれまでの東洋的算術をまとめ上げたものである。孝和という人物は甲斐甲府藩における甲斐国絵図を作成する事に関わり、また、授時暦(ジュジレキ)という暦を作ろうとした人物である。先月のコラム「2度目のポーランドは印象が薄かったが、残るものはあった」で、伊能忠敬に触れたが、信由は忠敬が伊能図を作っている過程で出会い、これを機に当時最先端の測量学や測定機器を知り、それに触発され、自らも様々な測定機器を工夫し、驚くほど精密な加越能三州之図を作成した。この地図は、今日の地図の精度とほとんど変わらないと言う。これらのノウハウは、高樹文庫として文書化され、その博物館に所蔵され、今日に伝えられている。その資料の中で、目に付いたのは三角関数の記述であった。数学の中でも三角関数は役に立たない数学の代表例のように言われるが、測量技術の基礎の多くはこの三角関数を基礎にしている。長さと角度という異なった単位を組み合わせて算出する技法は非常に興味深い。しかも、石黒達は数式だけでなく、変換数値表を作成するという所までを提供している。この三角関数はヨーロッパの数学であったが、我が国に積極的に導入したのが石黒信由だとされている。数学という理論を使って、測量というデータ収集技術を創出し、地図という情報に変換したプロセスは正に実学といえよう。しかも、その地図も目的に応じてバリエーションを持たせている。田畑の石高を算定するための地図、地形や街道を知るための地図などである。伊能図は海岸線の情報に優位性があるが、石黒の地図は内陸部の情報に優れているとされる。
地図作りといえば、松浦武四郎(マツウラ タケシロウ:1818〜1888)という人物も思い出される。東西蝦夷山川地理取調図という精巧なアイヌ語の地名の入った北海道地図を作成した彼は、「北海道」の名付け親でもあった。最初は、「北加伊道」だったらしい。「加伊」とはアイヌ語で「生まれる」という意味であったと言う。彼は、北海道を初め、択捉島や樺太までを廻った。その過程で、アイヌの文化を知り、和人(江戸後期にアイヌ民族と区別するための用語とされる)と違う文化に出会い、和人によるアイヌへの差別行為を目の当たりにし、アイヌも和人も同じ日本人という概念、また、日本という国家概念を江戸末期に認識した数少ない日本人だったと思われる。一畳敷書斎は彼が晩年、書斎として作った建物で、その材料は法隆寺、熊野本宮、春日大社、久能山稲荷神社、伊勢神宮外宮、東福寺仏殿といった全国の古い社寺の古材だとされる。現在、国際基督教大学(ICU)キャンパス内で泰山荘として現存している。
理論(数学)を身近な生活に有用な情報(地図)に応用するためには、測定技術(測定機器と計測法)が必要となる。長さを測る道具、角度を測る道具、方位を測る道具などが必要となる。これらの道具を作り出す知恵と技術が物作りの基本であろう。これらの道具作りには頭の器用さと同時に、手先の器用さが必要となる。この2つの器用さを持ち合わせた人間が、石黒信由であり、伊能忠敬であり, 蒋 英実(チャン ヨンシル)であったのではないか。デジタルやAIが喧伝される今日、改めて人が人としてより良く生きるために役立つ学問、実学を、石黒、伊能、松浦といった諸先輩を通じ、今の日本人は思い起こす必要性を感じる。

参考文献
高木崇世芝、安村敏信、坪内祐三、幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷、INAX出版〈Inax booklet〉(2010)
以上

平成29年9月

先頭へ