コラム KAZU'S VIEW

2017年08月

2度目のポーランドは印象が薄かったが、残るものはあった

7月28日から8月4日までポーランドのポズナン(ポズナニ:Poznan)に滞在した。第24回ICPRへの出席が目的であった。往復ともに小松―羽田―ミュンヘン−ポズナンの経路であった。ミュンヘン経由でヨーロッパに入るのは初めてだったような気がする。そのためか、帰りの便の乗り換えの際、パスポートコントロールの混雑した待ち行列の中で、EU在住者の列に紛れ込んでしまい、やっとパスポートを出す機会がきた時に、出国検査官からおまえの並ぶ列はあっちの列だ、と言われ、再び長い待ち行列の最後尾に付くことになり、乗り換え時間が後わずかしかないというスリルを味わう羽目となった。その際の検査官とのやりとりで、Do you live EU?をDo you leave EU?と聞き間違得たことが会話を一層長引かした事も時間経過を長引かせた。ミュンヘンからの帰国便で乗り合わせた友人から、日本人でも電子出国検査ができたという話を聞き、改めて情報収集力の欠如を思い知らされた。ヨーロッパは2011年のドイツ、シュツッツガルト以来、6年目になる。この6年間にヨーロッパはかなり変化したように思う。中東からの移民問題とそれに伴うテロのリスク増加、EUからのイギリス離脱等々である。テロのリスクを避けるために、意識的にヨーロッパを避けてきたが、ポズナンではその雰囲気は感じられなかった。その代わり、10時間以上のフライトに忍耐感を強く感じたことの変化の方が驚きであった。
 ポーランドは2007年6月の「ワルシャワは大国間の狭間に生きつつ女性がリードするカカ楽の世界か?」のコラム以来、10年目であった。その時は、ワルシャワ(Warsaw)滞在であった。ポズナンは、ポーランド西部に位置する、ポーランド最古の都市の一つで、中世ポーランド王国の最初の首都である。人口は約58万人で、ポーランド5番目の規模である。この地域には石器時代から人が住んでいて、8世紀頃に形成されたスラヴ人の城塞集落が都市としてのポズナンの起源とされる。旧市街地のウオーキングツアーの際にその城壁跡が遺跡として残っていたが、気温30度越のウオーキングツアーは日陰探しのきついもので、遺跡の歴史を十分聞く余裕もなかった。11世紀に入るとポーランド王国(1025年〜)の最初の首都となった。この時代に建てられたというポズナン大聖堂(聖ペテロ・パウロ大聖堂)はゴチック様式建築の大空間と重装で趣のある天井画や壁画に圧倒されるが、暑さしのぎの場としての利用価値を大いに満喫した。ポズナンもその歴史の中でモンゴルの侵攻、十字軍運動、17世紀の三十年戦争、18世紀の北方戦争、プロイセン王国による併合、19世紀ナポレオン・ボナパルトによるワルシャワ公国併合など時の強国による様々な影響を受けて来た。第二次世界大戦ではドイツ軍とソ連軍の激しい戦闘によりポズナン市街地全体の半分以上が破壊され、特に旧市街はその九割以上が破壊されたという。戦後、残された資料を元にポーランド人の手によって完全に復元されたという話は、ワルシャワで聞いた話と重なり、この国の歴史観を改めて認識できた。
学会会場は、ポズナン工科大学(Poznan University of Technology)のキャンパスで行われた。このキャンパスは、バルタ(ヴァルタ:Warta)川の畔にあり、自然豊かな場所にあり、旧市街地からも比較的近い位置にあった。大学の建物の屋上に巨大なデイジタル時計が時を刻んでいる風景が印象的であった。学会に先立ち、理事会がAndersia Hotel であっが、そのホテルの向かいに赤レンガの特徴的な形の大きな目新しい建物が目に入った。時間があったので、その建物に入ったがそこは巨大なショッピングモールで会った。この建物は、元々工場であったものをリノベーションしたものだという。建物の中には物があふれ、並んでいる商品や店名は金沢周辺にあるショッピングモールと何ら変わらない風景であった。お土産にポズナンの工芸品を探したが、見つけ出せなかった。その建物を出た近くに、2kmばかりの石畳の道の両側に個店が立ち並ぶ商店街があった。多くの人々が行き交っていたが、そこにも探し物は見つからなかった。
 ポズナンは千年の歴史を持つ古都だと言う。また、ロケットの父といわれる、ヴェルナー・フォン・ブラウン(Wernher von Braun)博士の出身地であると言うことも後で知った(1)。今年の6月のコラム「古都奈良に来て,ご当地キャラの変化から古(イニシエ)を思った」で日本の古都について感じたことを比較して見ると、物の価値と心の価値の視点で、物価値は見た目の判断がしやすいのに対し、心価値は見えにくく、また、見る側の心の持ち様で変わって来る。今回の2回目のポーランド訪問で物価値の視点からは特に見出す物はなかった。心価値を知るために今回はポーランドの人達と深く話す機会はなかった。ポーランドの歴史からすれば周辺国の政治的・軍事的環境変化に対応し、生き続けるという宿命がある。10年前のコラムではポーランドの女性に焦点を当てた。そこで、今回は、ポーランド男性のサンプルとして、ポズナン出身のブラウン博士に焦点を当てる。彼は、ロケットの父として、第二次大戦時にナチのためにロケットV2の開発を行い、終戦後はアメリカのアポロ計画の実現のためのサターンロケット開発を行った。このような彼に生き方には様々な意見があるが、そこに一貫したものは、彼の子どもの頃からの夢であった、宇宙への憧れがあったと言う。一説によると、子どもの頃、彼は数学と物理が苦ってあったそうだが、宇宙への夢がこの苦手を克服し、彼の物理、数学能力を一級のものにしたといことである。このような一途な夢の実現への思いは国を超える、とうい事例ではないか。宇宙への子供の頃の夢を50歳(現在の70歳位に相当するのではないか)過ぎからから追い続け、江戸時代に日本地図(伊能図と呼ばれる)を作った男(2)、伊能 忠敬(イノウ タダタカ:1745年〜1818年)や、朝鮮時代の初期(日本では室町時代)に緯度計測器の簡儀や日時計、水時計等を製作し、朝鮮最高の科学者、発明家と言われた蒋 英実(チャン ヨンシル:1383年〜1450年)を扱ったTV番組務が思い出される。改めて、66歳の誕生日を迎え、自分の夢とそれへの執着について考えさせられる夏の旅であった。
参考文献
(1)西條寿雄、ロケットと火薬の歴史書:その起源から近代ロケットの誕生まで、イーブックスパブリッシング(2014)
(2)星埜由尚、伊能忠敬 日本をはじめて測った愚直の人、山川出版社(2010)
以上
平成29年8月

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