コラム KAZU'S VIEW
2016年03月
初めての高知訪問で見つけたもの
3月4日から6日にかけて初めて高知を訪れた。高知工科大学で開催された日本生産管理学会第43回全国大会への参加、発表のためであったが、今まで行ったことのない都道府県の1つであり、幕末の多くの志士の生まれ育った地(志国高知という表示が市内のあちこちに見受けられた)がいかなるものかにも大いに興味をそそられるものがあった。
高知龍馬空港からJR高知駅に向かう途中のバスの車窓から見る菜の花のまぶしい黄色で春の息吹を感じながら終着の高知駅に着いた。まず、目に入ったのは駅前の広場に立つ3体の大きな像であった。坂本龍馬を真ん中に、武知瑞山(タケチ ズイザン、通称は半平太)と中岡慎太郎が両側に立っていた。まだ、目新しい緑色をしてかなり大きなものであった。3人の顔はなんとなくふくよかな丸顔で漫画チックであった。その像から駅側には観光案内所と演劇上のようなものがあった。高知駅のプラットホームはかなり高い位置にあり、ドーム型のモダンや屋根が印象的であった。そのホームにはアンパンマンのデコレーションアートの電車が出入りしていた。ホーム下の建物には土産品ショップとともにアンパンマングッズのショップがあった。まずは、初孫娘のお土産をアンパンマンショップで物色した。
なにやら、新しい高知を見聞した後、MY遊バスを使って高知城、桂浜、坂本龍馬記念館、県立牧野植物園、はりまや橋など一通り回ってみた。高知城ではその天守閣からの見晴らしに感動したが、少々高すぎて、高所恐怖症の私には、いまいちであった。場内には山内一豊やその奥さん(千代、あるいは、まつともいわれ、定かでない)、板垣退助の銅像が目に入ってきた。銅像の多い土地柄なのかとも思った。城内の一角に博物館があった。その博物館には、長宗我部一族のコーナーがあった。長宗我部氏は戦国時代に土佐を統一し、四国に進出した戦国大名で、その祖先が始皇帝の一族だという。その祖先は、聖徳太子の信任を受けており、丁未の乱(テイビ ノ ラン587年)で聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋(モノノベ ノ モリヤ)を倒した際に功績をたてということである。長宗我部氏の軍隊組織は一領具足(イチリョウ グソク)といわれる一定の私有の領地を認められた名主層が特徴で、後に郷士(通常は農業に従事するが、時あらば軍務に従事する武士に準ずる身分)を形成していた。坂本龍馬も土佐郷士である。牧野植物園は、日本の植物学の父といわれる故牧野富太郎(マキノ トミタロウ)博士の業績を記念して1958年に五台山(ゴタイザン)に建てられたもの。1999年に建てられた牧野富太郎記念館(内藤廣氏設計)のデザインと温室の蘭の花の彩り、そして牧野博士のスケッチ力と形状描写の文字説明力に心を動かされた。
桂浜の近くに坂本龍馬記念館(高橋晶子氏設計)があった。桂浜から結構な階段数と坂を登ったところに箱が横に飛び出したような特徴的建物があった。正面玄関の前に坂本龍馬の像(シェイクハンド龍馬像)があり、片手を差し出し、握手を求めていた。館内に入ってすぐに、ビデオ説明のコーナーがあったが、少々、長すぎるような気がした。館内を見回っていると、海援隊のコーナーがあった。そこで、海援隊約規という文書を見ていたが、そこに、「学習」と「仕事」という記述を発見した。学ぶことと働くことを明記している海援隊は、組織学習を明文化していたことになる。
今回の学会での発表は、「マネジメントを教養化するための人材育成プログラム開発」がテーマであった。仕事を通じて学ぶ(Learn by working)を目指した学習方法を目指すプログラム開発を論じたものであった。なにやら、自己満足に浸りながら、高知を後にした。
以上
平成28年3月