コラム KAZU'S VIEW
2015年05月
かぐや姫のアニメに見る日本文化とケルト文化の共感性
高畑勲(タカハタ イサオ)監督作品による「かぐや姫の物語:姫の犯した罪と罰」というアニメを見て心を動かされた。絵のシンプルさとその動きのアナログさも、何かなつかしみを感じた。CGやデジタル技術が横行する現代に、ふと、日本人が心の安らぎを感じるイメージを持った。第87回米アカデミー賞で長編アニメ映画賞にノミネートされていたディズニーの「ベイマックス」に敗れた結果となった点も象徴的である。
日本昔話の竹取の翁(オキナ)が、原点である。月から来た、かぐや姫が、再び月に帰るという話であるが、そもそも何のために地球に来たのかの理由が、1つのテーマであろう。また、子供のいない老夫婦に突如、子供が天から授かるというストーリーも、一見、唐突な感じを受ける。多分、かぐや姫の目と心を通じて人間世界の不条理と美しさを描くという技法かもしれない。先日、母(父)娘の争いが話題となった、ある大手家具メーカーの件も、かぐや(家具屋)姫に通じる現象なのかもしれない。ところで、原題の「竹取の翁」とはどのような人物であったのか?正に、これがテーマではないか。当然、翁というからには、男であり、年齢も結構行った方であろう。アニメでは、娘可愛さの父親の典型であり、娘の幸せを身分や財力に結び付けたがる人物像として描かれていた。また、その風体は、娘の婿候補に対して、かなり美しいとは言えない描き方をしていた。その、意図は、男は見てくれではないという意図があるように見える。
かぐや姫は、人間ではなく、神の世界の存在であるが、人間俗世界に共感を持ちつつ、本来の世界に引き戻される。引き戻されるという描き方は、本人の意志ではなく、第三者による強制という意味になろう。しかし、この描き方の真偽は、どうなのか。本人の意思ではなかったか、という疑問も残る。ヨーロッパにキリスト教が布教する前に勢力を張っていたケルト文化に妖精(エンジェル)という最下層の神様がいる。ピーターパンの話に出てくるテインカーベルが代表であろう。この世界はロードオブザリングやハリーポッターと同じ世界である。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教とは異なり、日本とケルト文化は、いずれも多神教の下での文化である点が共通している。ケルト人は現在、アイルランドに住んでいる。古代ケルト人はもともとドルイド教を信仰し、日本人は神道を信仰していた。カトリックや仏教は、外部からもたらされた宗教である。カトリックがアイルランドに入ってきたのは432年で、布教したのは聖パトリックとされている。彼は、布教に当たりケルトの宗教に対して否定的ではなく、むしろ土着の宗教とカトリックを融合させ、一人の殉教者も出すことはなかったと言われている。日本へ仏教が伝来したのは、その百年後の538年に百済からとされるが、仏教の世界観と古来の神道の考え方は本質的に異なるものの、人々は、仏教の神である菩薩や仏をも、神道の八百万(ヤオヨロズ)の神の一部として受け入れたのであろう。古代ケルト人は、太陽を創造と豊饒(ホウジョウ)の神とし、全ての生命の源としていたようである。あるとき、太陽が魔の雲によって闇に覆われた暗黒の時代に、その闇を払ったのが、女神ブリギットであった。日本には天照大神(アマテラスオオミカミ)という女性の太陽神がいて、天岩戸(アマノイアト)にまつわる岩戸隠れの伝説もある。また、ケルトには輪廻転生(リンネテンショウ)の思想があり、そのシンボルとしてケルトの渦巻き模様がある。このケルトの渦巻き模様によく似ていると言われるのが、日本の縄文土器の模様である。人間や動物、植物などの自然の形態として生死を繰り返す永遠性の思想が共感性を呼ぶ。
娘を取られる父親の心情からすれば、同じ人間の男にとられるくらいなら、別世界に戻っていくという方が、救われるということではないか。そのような男の心情を、竹取の翁は象徴しているような気がする。このような題材が、神と人間の世界をまたいで描かれている点に、ユーラシア大陸の東と西の端にある2つの島国の文化の共通性の不思議さを感じる。
以上
平成27年5月