コラム KAZU'S VIEW

2004年10月

カカ楽のルーツは南か北か?

先にフィリピンとインドネシアの訪問記を述べた。太平洋戦争の転機はレイテ島海戦だったといわれる。日本海軍はその時「武蔵」を失い、戦局は敗戦への流れに傾いていく。当時、日本の命運をかけた船が3隻あった。「大和」、「武蔵」そして「信濃」。信濃は戦艦として造り始められたが、その後空母に改装された。当時7万トン級の船を造れる技術は日本にしかなかった。レイテ島沖の海戦は航空機戦であった。戦いの流れが巨砲から航空機に移行していた。戦いの世界の大きな変化を読み取ることを当時のトップが誤ったことは、40年後の80年代での経済状況判断の誤りとそれ以降のバブル経済収束対応策の混乱状況とを重ね合わせることができる。

2002年に話をもどそう。終戦記念日が独立記念日という体験は少々、カルチャーショックだった。それと同時に、フィリピンとインドネシアの政治的トップがアロヨ女史とメガワティ女史という女性だったことが印象深かった。日本の歴史を見ると、歴史的変革のきっかけは女性が基になっていることが多い。その最初は天照大神(あまてらす・おおみかみ)であり、その次は推古天皇、北条政子そして和宮が、聖徳太子、源頼朝、徳川慶喜の変革に影響を与えたのではないか。日本はその変革を女性なくして語ることあたわざる国であったようだ。京都大学霊長類研究所の報告の中に猿社会の変革の旗手は雌猿で、しかも年齢は人間年齢で15歳位のイチゴ世代がリードするらしい。猿が温泉に入り、野菜をゆでて食べるという変革は彼女らが始めた文化らしい。

日本人のルーツ説に南洋民族漂着説と北の遊牧民渡来説がある。どちらも納得出来る説である。フィリピン南西端、スールー諸島にはバジャウと呼ばれる一生海の上で生活する人々がいるという。彼らの生活は母親中心の家族主義の生活パターンらしい。日本でも瀬戸内海で家舟と呼ばれて生活していた人々と共通点が多いという。バジャウの末裔が日本に漂着したという仮説も考えられないか。1998年7月に台湾を訪れた時に、初めて台湾の東海岸沿いを旅行した。その時に立ち寄り一泊した町で何か聞き慣れたリズムを耳にした。最初は良くわからなかったが、良く聞くと日本の盆踊りのリズムに似ていた。何気なく開放的で心の鼓動を増幅させるものであった。多分、南洋民族が台湾に漂着したことの名残ではないかと懐かしい思いを感じた。日本の盆踊りはフリーセックスの場とも言われる。盆踊りの場で男女が出会い、互いの心の振動が共鳴すれば、後は性的社会規制や道徳倫理に拘束されることなく、心のままに行動することができる唯一の機会だったと言われている。一方、北にはイヌイットと呼ばれる人々がいて何千年もかけてカナダからグリーンランドに渡る広い地域でその子孫を残している。彼らの生活様式は祖父または父親を中心とした大家族主義だったらしい。パジャウの人々が1家族単位の船を生活基盤として、温暖な海を生活の場としていたのに対し、イヌイットは狩猟を中心として大きな集団の中で、長老の経験と見識を尊重し、ツンドラの大地という過酷な自然環境を生活の場としていたのであろう。北の南の民がそれぞれ南下、北上して出会った場所が我々の住むこの地なのかも知れない。

このようなタイムスケールで見ると日本人のいい加減さ(世界的視点からの表現であり、決して日本人の表現ではない)のルーツは北と南の融合価値として、我々日本人自らが自覚し、世界に発信するべき価値観ではないか。90年代バブルで意気消沈していた日本から世界に発信された日本の情報として原宿界隈に出没するガングロファッションが新しい日本のファッションとして報道されたという。ここにもカカ楽の一面を見ることができる。日本のカカ楽は南から漂流した民のDNAコピーに基づくものと考えたい。

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