コラム KAZU'S VIEW

2013年05月

長嶋茂雄氏と松井秀喜氏の国民栄誉賞受賞について思う

5月5日に東京ドームで長嶋茂雄氏と松井秀喜氏への国民栄誉賞授与式の様子がテレビ中継されていた。セレモニーとして長嶋氏がバッター、ピッチャーが松井氏、キャッチャーが原巨人監督、主審が安倍晋三(アベ シンゾウ)第96代総理であった。長嶋、松井両氏は巨人現役選手時代の背番号をつけたユニホームで臨んだ。
国民栄誉賞は1977年(昭和52年)に、当時の第67代内閣総理大臣福田赳夫(フクダ タケオ)氏が、本塁打世界記録を達成した王貞治選手を称(タタ)えるために創設したのが始まりだそうで、その目的は、「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃(タタ)えること。」となっている。長嶋氏は「ミスタープロ野球と呼ばれるなど野球界の生んだ国民的スターであった。」ことが、また、松井氏は「日本人として初めてワールドシリーズで最優秀選手を獲得し、ゴジラの愛称で日米国民に親しまれた。」ことが受賞理由となっている。これまでの受賞者は22個人、1団体で分野別に見ると、スポーツ界9名、1団体、歌手・作曲家6名、映画・演劇界5名、冒険家1名、漫画家1名となっている。また、女性が4名(18%)、1団体となっている。歴代内閣で最も受賞者が多かったのは中曽根内閣の時の4名で、現安倍内閣からは3人目である。
長嶋選手のデビューは1958年4月5日、対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場であった。金田投手にたいし、4打席連続空振り三振であったが、その年の8月から打撃の神様と呼ばれ、巨人V9(1965年から1973年までの日本シリーズ9連覇)の優勝監督でもある川上哲治(カワカミ テツハル)選手に代わる巨人の4番打者となった。1959年6月の日本プロ野球史上初の天覧試合では、サヨナラ本塁打を放った。1974年10月14日の中日戦が引退試合となったが、この日は中日の優勝祝賀パレードの日でもあった。通算安打を実働年数で割った平均安打数は長嶋選手145本に対し、同時代に活躍した張本選手134本、王選手(第1回国民栄誉賞受賞者)126本、衣笠選手(第6回国民栄誉賞受賞者)110本などと比べても突出していた。
松井選手は、1992年の第74回全国高校野球選手権大会の第2回戦で5連続敬遠されてしまった逸材。巨人への入団会見で他の新人選手が憧(アコガ)れの選手名や具体的な成績目標を述べる中、松井選手は「サッカーや相撲に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります。」と述べた。これは長嶋選手がプロ野球を日本の国民スポーツにした後、右肩下がりのプロ野球の状況を憂いての言葉に対する回答であったと思われる。1993年5月1日のヤクルトスワローズ戦、東京ドームで7番、レフトとして一軍デビューをした。当初、3塁手としての声もあったが、俊足と強肩を活かす外野手として長嶋監督がコンバートした。1995年8月から巨人の4番打者。2002年12月にアメリカニューヨークヤンキースに移籍し、公式戦開幕試合のトロント・ブルージェイズ戦に5番レフトで先発出場し、初打席・初安打・初打点を記録した。2009年ヤンキースからエンゼルスに移籍、続いてアスレチックス、レイズに移り、2012年12月28日に引退会見をした。メジャーリーグでの安打数は1253本(日米累積2643本)、内本塁打数は175本(イチローは2012年に100本塁打)で日本人選手でメジャーリーグで100本以上の本塁打を打っているのは松井とイチローの2選手だけである。
今回の国民栄誉賞のダブル受賞には、いろいろな意見がある。松井氏の引退の言葉は「結果が出なくなったということで、命がけのプレーもここで一つの終わりを迎えた。」だったという。これは松井氏が野球という劇場において、プレーヤーとしての役割を演じ終えて、その次に迎える場への期待を、今後の日本に重ね合わせることの意味合いがあるのではないか。野球を通じた夢の続きは、世界に繋がる日本価値の創造に繋がる。肉体の限界に続き、精神の限界への新たな挑戦。心の振り子(感動)と肉体の振り子(行動)のスウィングが、張本氏が指摘する右足の上下動の弱点を心的に克服し、次の日本の方向を示すことを期待する。
以上
平成25年5月

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