コラム KAZU'S VIEW
2013年03月
27年間の研究室を通じた人材育成を振り返る
1985(昭和60)年の11月に現在の職場に赴任してから、27年間という年月が経過した。この間、学部生282名、大学院専攻科研修生2名、修士学生29名の延べ313名が巣立って行った。博士課程が所属専攻には無かったため、博士学生を研究室から出すことはなかったが、学外審査委員としてAsia Institute of Technology(タイにある大学院大学で略称AIT)で2名、北陸先端大学院大学で2名の博士論文審査に関わることができた。また、海外から博士課程学生の短期留学生として、アメリカのIllionis大学から1名、タイのMongkut's University of Technologyから3名の研究生を受け入れた。
振り返ってみると、大学に残ったのは好きな研究をするためであり、教育に関心があったわけではなかった。教育に関心を持ち出したきっかけは、2000年に経営技術競争力研究会を立ち上げ、この研究会で日本の産業競争力の調査を行ったことが1つであった。この研究プロジェクトの目的は、バブル崩壊後の失われた10年についてマネジメント分野の研究者、企業経営者および経営コンサルタントが戦後の日本の経営技術の評価分析と課題を明かにすることであった。日本企業の対アジア、対ヨーロッパ、対アメリカの競争力の調査法設計と調査結果解析の過程を通じ、日本の競争力低下の原因として、官僚機構の非効率性、日本人のベンチャー意識の弱さ、そして日本の大学の競争力の弱さが指摘されていることを知らされ、また、調査結果による日本のリーダーシップ力の弱さの指摘であった。また、このプロジェクト以外の要因として、1995年頃から、所属する大学で、教育改革と呼ばれる活動が開始されたこともある。これは、大学の社会的責任論が交され始めた初期の頃である。さらに、この教育改革の一環として2002年に日本技術者教育認定機構(JABEE)という技術系高等教育プログラムの外部審査の試行を受けたことで、教育プログラムの設計、評価、改善について経験的に学んだことも重なっている。
また、2000年前後の数年間、自動車部品のASEAN諸国での分業生産システムの実態調査研究でASEAN諸国を訪問し、各国大学で特別講義などを通じて感じていた、ASEAN諸国の学生達の熱い受講態度に比べて、日本の大学生の冷めた受講態度のギャップを肌で感じていたこと、同時期に経営工学関連の国際会議組織を設立・拡大するための交渉活動を通じて、各国が日本からアメリカに視点を移している様子を感じ、危機感を深めていたことも根底にあった。
以上のような危機感を募らせていた時、2006年から2年間、経済産業省の委託プロジェクトとして、製造中核人材育成事業に取り組む機会に巡り会った。この事業で、それまで暖めていた、「生産現場の教室化、先端業務のテキスト化、そして自らを変革して、周り(組織環境)を変えられる人財育成」のコンセプトを実現することに挑戦した。このコンセプトの実現のため、社会人教育と大学院修士教育を組合せ、地元企業と連携することで、座学・実習・プレゼンをコアとする実践的専門教育プログラムの開発、運営、改善活動に取り組んだ。この事業は、3年目から自立化を前提としていたが、3年目は地元産業界の支援によって石川県との連携事業として継続でき、4年目から完全自立化を達成した。この事業では大学(Academic)、企業(Business)、中小企業診断士協会(Consultant)および行政(Government)によるABC-G連携を前提とした教育プログラムを通じて平成24年度までに延べ200名を超す修了生が巣立った。この修了生達には、作り出す製品が顧客感動を呼び起こし、モノづくりのすばらしさを顧客と共感し得る継続的知識創造力を持つ人財となることを祈念している。
20世紀から21世紀をまたいで生きる機会を与えてもらい、この間、Japan as No.1から失われた10年を体験でき、その中で研究から教育への自らの関心の推移を、還暦を過ぎた身として振り返ることができた。人材育成を通じて考えることは、研究と教育の一元化である。研究と教育は二律背反の関係にあると考える人もいるが、2000年以降の自らの経験から2つの両立は可能なような気もしている。そんなことを教えてもらったのは、この30年近い間に、研究活動を共にし、研究室を巣立って行った300人余りの研究パートナーであったことを改めて認識し、感謝の念を持ちつつ、少しの寂しさを持って研究室を閉じた。
以上
平成25年3月