コラム KAZU'S VIEW

2011年12月

還暦のうさぎ年は辰年の準備の年だった。来年こそはハッピーに!

平成23年のうさぎ年も終わろうとしている。還暦を迎えたこの1年を振り返って見ると、東京勤務であった娘が地元勤務になり、1月から自宅で一家3人が一緒に暮らすようになった。1月の大雪の際の雪かきには大変助かった。2月になると、年越しで通院していた50肩の治療がリハビリ治療室の閉鎖で2月いっぱいで治療を受けられなくなることから、自己トレによるリハビリに変更するための準備をしつつ、2月も続いた大雪の雪かきエクササイズを楽しんだ。3月に自宅のキッチンの修理で1週間ほど、不自由な生活をしていた間に、東日本大震災が起きた。そのニュースを家裁道具とテレビで埋まった8畳間でかたずを飲んで呆然と眺め続けていた。3月末にフィンランドから友人が来日する予定で準備を進めていたが、震災とその後の原発禍で中止された。その後、福島原発のニュースで右往左往している内に4,5月の2カ月が過ぎた。6月にフランクフルトで開催された第12回ISPIMには欠席した。フランクフルトでは1ヶ月後に女子サッカーのワールドカップが開催予定であったので楽しみにしていたが、やはり、東日本大震災への思いが海外への足を止めた。その制動力は明確に説明できないが、同胞の被災に何もできない自分への後ろめたさと、海外からの支援に対しどのようなメッセージを伝えたら良いかを思い悩いんでいて、その結論が出ていないことの2点は自覚できていたと思う。悶々とした6月の梅雨を過ごし、7月を迎えて、なでしこジャパンの快挙が何かを吹っ切らせた。そして、8月を迎えて、気持ちを整理してドイツのシュツットガルトに妻と一緒に出かけ、3月からの思いを海外の友人達に素直に伝えることができた。そのことで自分のやるべきことを改めて確認でき、60回目の誕生日を迎えられた。9月は8月のドイツでの自信回復の高揚感と、これからの目標実現への不安とが入り交じった不思議な期間であった。そんな中、10月に10年ぶりに北京を訪れ、中関村の近代化に脅威と少しの寂しさを感じ、11月に広島原爆祈念館と岩手の宮古を訪れ、震災・津波という自然災害と原子力発電所事故という日本人にとって明治以降の近代化がもたらした結果の意味を深く考える機会に遭遇した。そして、12月に入り3年越しのNHKの特別ドラマ「坂の上の雲」の完結編を見て、秋山兄弟や正岡子規を通して明治の先人が何を考え、どのような行動をし、我々に何を残し、伝えようとしたのかを改めて考えることができ、ここに無事還暦を迎えられことに心から感謝することができた。8月にシュツットガルトから帰国し、老眼鏡を購入した。7月頃から手元の文字や、パソコンの画面が見にくくなった。その変化が急激だったので少々戸惑った。活字を読むことが仕事であったことが、苦痛になることの恐怖があった。それから4ヶ月という時間が老眼鏡のかけ外しという煩雑感と、装着した際の頭痛感という不安を慣れという方法で押し流し、なるようにしかならないというあきらめの先に何か、かすかな楽しみのようなものを見いだしたような気がした。これが錯覚か真実かを確かめることが第二の人生の楽しみ方ではないかと思うことで、変な割り切りをした。 8月に旧盆で山梨に帰省した。今年のお盆は例年と少し違った思いを持ってお墓参りをした。母の17回忌と父の13回忌の法事が3月に予定されていたが、卒業式と重なったために出席できなかったこと。息子の結婚が決まり、お嫁さんを含め一家5人で出かけたこと。姪っ子に子供かできたことなど家族や親戚が増える喜びがあった。思えば母親が亡くなったのは3月で、ちょうど卒業式があり、死に目には会えなかった。その後、父親も他界し、両親が亡くなってから、生前よりも逆にいつも自分の近くに両親がいるような気がして身近に感じることが不思議な感覚であった。 行く人、来る人、そして行く年、来る年。還暦のうさぎ年もまもなく去って行く。このうさぎ年の1年は来る辰年が天に昇るための準備の時期であったと信じたい。これからの第二の人生をどう生きるかに惑ったこの1年は、兎跳びができなくなった肉体的衰退と、その一方で益々活気づく精神的活性化の狭間で揺れ動いた。このような思いを巡らせることが還暦を迎えるということなのか。なかなか飛べなかった厄年の1年を生き延びただけ、幸せを感じることが出来た1年であった。多くの人々が去って行った。残ったものはその思いを未来につなげることが勤めとなるのでないか。このコラムが丁度百編目となる。出あった出来事や、人々に多くの感動をもらい、これを行動に結びつけることを今後も続けられる幸せ感を持ち続けて行きたい。
合掌

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