第14回 信頼と応用倫理  杉田正樹


0.はじめに

 「経済倫理の再構築をめぐって」という比較文化的研究のプロジェクトを現在やっている。応用倫理の中で、生命倫理、環境倫理、情報倫理は比較的あるが、経営倫理、ビジネスエシックスが弱いのではないか。研究されているとしても経営学者によってというのが多い。そこで、それを思想的研究していこうというプロジェクトである。今年で最終年であるが、2年目では中間報告書を出した。また、中国でシンポをしたり、韓国でもこの秋やる予定である。できれば米国でも開きたいと考えている。それは、アメリカンスタンダード一辺倒に警鐘を鳴らすためである。

 現代の問題への唯一の突破口は教育ではないかと考えている。先日、学会でも教養教育についてシンポで扱ったのだが、教養教育は今壊滅的であり、日本は危機に瀕している。今、文化領域は経済に席捲されている。政治もそうである。だからこそ、今、経済活動の倫理を研究し、経済活動をきちんとしていかなければだめだと考えている。


1.信頼と応用倫理について

本日は、

  1. 信頼はなぜ必要なのか
  2. 信頼はなぜ損なわれるのか
  3. 信頼はどのように保証されてきたか
  4. 信頼とは何か
を問うこととする。これを通して、どこまで今日の経済の問題に答えられるかわからない。これは哲学の弱みであるが、一方で哲学の強みは、ソクラテスが言ったように「何も知らない」と堂々といえるところである。

 今朝の朝刊では、@「裏値引き 10億円山分け」 A「早大研究費不正で財務省は106億円配分凍結」 B「山形大 論文データ捏造  医学部「教授が指示した」」という事件がのっていた。つまり、お金がかかわるところでは常に不正が起こっている。これに何ができるかというと何ができないかもしれない。監視をするにしても、そのためには人材も金もかかる。不正が出たほうがまだコスト安かもしれない。これらに問題にどうするかは、哲学には答えられない。

 6月の新聞記事では、「人間関係が希薄に」と答えた人が80%と載っていた。つまり、頼りにならない、ということ。特に地方都市でこの答えが伸びている。

 「千と千尋の神隠し」では、「そんなにそばに寄らないで、歩きにくいから」とお母さんが千尋に言うというせりふがある。

 「このごろの子供は鉛筆が持てない。ましてや箸をや」とピアノ教師。つまり家庭での教育が全くなされていない。勉強しなさいとは言っても、より基本的な教育がなされていない。それが現代の日本の姿である。


2. 信頼はなぜ必要か

 なぜ信頼が必要かといえば、

  1. 自己の利益を守る→生命、財産
  2. 危機、リスクの回避
  3. 知らない人一般との間に成り立つ→集団の規模の拡大、交換→時間
  4. 持続的自体としての信頼←財産
  5. 「信頼とは、所与の一連の結果や出来事に関して人やシステムを頼りにすることができるという確信」(A.ギデンズ)
といったことが考えられる。 つまり、信頼が必要になる背景としては
  1. 所有(持続、承認)があるから←動物にはない。人間のみ。
  2. 所有者としての個体(所有するから、「私はこれを所有する個体である」ということで、私とは何かがはっきりする。それしか指標がないからしかたがないが)
  3. 個体から分離可能な所有物
  4. 交換と効率(←分離可能だから交換可能で、盗むことも可能)
  5. 市場の形成(市場が成立する以前は収奪かもしれない)
  6. 市場の自己運動、暴走(所有が始まって所有欲が沸いた)
 動物は、強いもののみが生き残っていくことで種が保存されていった。人間だけはそうでない部分がうまれた。ひとつには、強い/弱いの軸が一つでなくなったということがあるかもしれない。また、人権という概念をもった。 倫理とはルールである。その集団に秩序をもたらし、その集団のストレスやトラブルを減らすためのものである。ルールは生まれた後に身につけられるもので、だから教育が大切である。 また、ルールが成り立つための条件は自由があるということである。人間だけは、自由をもっている。それをする自由もしない自由ももっている。自由があるから責任もある。 そのルールを守らせるためにはどういう手法があるのか。

3. 信頼はなぜ損なわれるのか

  1. ただ乗りへの誘惑(コリンズは、著書「脱常識の社会学」で、2者間で約束を守る場合と守らない場合で4通りのパターンで、結局は約束を守らない人が得をするということを論証した。だとすると、なぜ人間は約束を守るのか。非合理を選択するのか。非合理を選択させる何かがあるのか。ヘーゲルなどの議論とも近いが、個人は集団の中の個人であるから、約束を守るという選択するのだ。コスモポリタニズム対コミュニタリアニズムという議論とも関係する議論である。しかし、一方で、違反することで利益があがるなら、違反者はなくならないだろう。)
  2. 社会の規模の拡大、顔を知らない人々、歯止めなき欲望
     分業が発達すると、互いに顔を知らない人々が出てくる。農業が始まって1万年。ホモサピエンスはせいぜい20万年。その20万年のうちの最後の1万年で農業が始まった。農業が始まって5千年たたないうちになんとピラミッドが始まった。権力があったからピラミッドができた。権力は富があってこそ、生まれた。ピラミッドができたころ都市もできた。都市ができて、顔を知らない人が大量に生まれた。
     農業10000年前→ピラミッド5000年前→都市革命→哲学・普遍宗教2500年前
  3. いままで約束をまもっていたから、次も守るとは限らない
    これが倫理を考える際にも難しい問題。どうやったら、次も守るようにできるのか。誰もみていなくても人がルールを守るようにするにはどうしたらいいのか。それを守るようにさせるものが倫理。だとすると、倫理はとっても重要。
  4. 倫理の根本としての信頼


4. 信頼はどのように保証されてきたか

4−1.信頼はどのように保証されてきたのか

  1. 動物との違い、社会、自由と責任、言葉と時間
    信頼は契約にそって行われる。契約は言葉によってなされる。信頼において言葉の果たす意味は?
    時間:等根源的
  2. 処罰(権力、世間):ホッブズの議論、世間は日本では強いが、ユダヤ社会でもあったようだ
  3. 宗教(超越者)、理神論的説明:不条理について説明を与えるのが宗教の重要な役割である。もっとも、宗教を役割(社会効率)として考えるというのは宗教に対する冒涜でもあるが。
  4. 専門家、エキスパートの登場←社会の複雑化
     近年宗教が弱体化して、代わりに出てきたのが専門家
  5. 良心から監視カメラへ
    人が見ていないところでもルールを守らせるものが良心だとしたら、近年、良心も危うい・・・。例)「千と千尋」のせりふ
    良心は心の中の監視カメラであったが、それが外部化された。文明とは、からだの内部にあったものが外部化されることでもある。

4−2.信頼を巡る根本問題

  1. 「神」(第三者)なしで契約は可能であるという誤解
  2. 人間は合理的に振舞う、という誤解←資本主義は、信頼なしで利益誘導だけでできるという社会という誤解。利益に誘導されれば人間は損得勘定にそって動くという誤解
  3. 人間の喜びが所有の拡大にあるという誤解
    ←市場の出現と支配、社会の変容
    ☆市場が出現して、この誤解を信じてきた。


5.信頼とは何か
5−1.信頼の概念

「信頼の概念」

  1. 「相手」が
  2. 「期待」に応えてくれる、と
  3. 「信じる」こと
この3つの要素によって、さまざまな信頼を規定することができる。


5−2.信頼の構成要素

山岸氏によれば、信頼の構成要素としては下記のようなものが挙げられている。

  1. 信頼の対象:人間(特定/不特定、専門家)、集団、社会、制度(通貨、言語など)、もの、抽象的なもの(勝ち、こころ、法則、など)、自然、神、自分、対象なし、など。
  2. 能力、意図
  3. 根拠あり/なし、意識的/無意識的、高度/低度
しかしこれでは不十分であると思われる。

また、同氏は、信頼を下記のような軸で整理したうえで、自然への信頼よりも社会的信頼が重要であり、社会的なものを構成する意志と能力では意志のほうが重要であり、意思がかかわる分野の中でも利害関係で整理できない人格に関する部分が重要であるとしている。それでは狭いのではないか、と私は考える。

5−3.信頼がもたらすもの

信頼がもたらすもの

  1. 安心
  2. 依存
  3. 確信

5−4.信頼の最終根拠は何か。

ヒント:信頼は財産だけでなく、生命を保証するものでもある

  1. 生物としての人間―同情、憐れみ、愛
  2. 生物の場合、遺伝子レベルでプログラムされているか
  3. 意識。自己意識をもった生物としての人間
  4. 所有の開始と市場の爆発


6.おわりに

今、何をなすべきか。

 社会において信頼が保証されるために、倫理的に行動するモデルがいたらいい。しかし、現代社会にはなかなかいない。モデルがいないということは、信頼が働かない社会、利益誘導だけの社会になってしまうかもしれない。

 信頼の要諦としては、能力、洞察力、かおり(品格)が考えられる。品格という言葉は今流行すぎているので、「かおり」という言葉を使った。 「いい人」であればいいのか。いや、「いい人」では足りない。「いい人」とはマイナスではないということを言っているにすぎない。

 すると、今重要なのは、教育とりわけ哲学(の教育)が重要と考えられる。哲学がやってきたのは、多くの知識を身につけることではなく、今ある事柄の要点、本質をつかむことである。


Q&A:

@プロフェッションの責任と信頼についての哲学的考察

Q:われわれのプロジェクトでは、科学技術の専門家(プロフェッション)のもつ責任と信頼を考えていくことをしているが、専門家に対する信頼ということを哲学ではどう考えているのか。

A:プロフェッショナルをどう考えるか。正直にいうと、学問、真理に対する信頼が今ない。教育に対する信頼もない。文化相対主義の害悪が回っているように感じる。どうしたらいいかわからない。

A現代の諸問題について、過去の哲学者の知見をどのように生かすべきか、生かさずべきか

Q:今の社会の問題は科学技術が人間に可能な行為を拡大してしまったがゆえに、過去と違う社会になってきてしまっている。だから、過去の哲学者の言ったことがそのままでは役に立たなくなっているのではないか。社会が変わる中で、過去の哲学者の知見をどう応用したらいいのか、それとも応用するのでなく新たなものを作るべきなのか。

A.哲学者は当時、もっとも先鋭的なことをした。だから、彼らの言ったことを今に適応するのでなく、彼らが当時したことを今すればいい。今ヘーゲルがいたら、どうするか。きっと当時と違う体系を作るかもしれない。哲学文献学ではなく、哲学をすべきである。哲学は、学説を述べ立てて、似ているところを援用するものではない(これは哲学文献学)。
しかし一方で、今の哲学は、文化的相対主義、なんでもあり、がはやっている。これが小学校の先生などにも影響している。あなたの判断、私の判断、私たちは関係ない、という発想。子供の自由を尊重し、責任をおわせる。判断能力のない人間にそんなことをしても無意味である。

B東大への信頼

Q:あらゆる面での権威が失われている中で、もっとも失われているのは、東京大学の権威、東京大学への信頼ではないか。学問上の不正行為、卒業生のホリエモン問題、村上問題など、大学が腐りきっているのではないか。それを東大卒の先生はどう考えますか?
外部から見ると、よくわかるものだが、先日なくなったドラッカーが、「日本の問題は東京大学にあり、一度東大を一度ゼロにしなさい」といった。こういうことは日本人ではいえなかったであろう。

A:TVで、駒場の教授が10人出て、爆笑問題で教養問題について語り合っていた。そこで、爆笑問題の大田のほうが勝っていていた。つまり教授陣は大田に迎合するあいまいな意見ばかり言っていた。教養はどこにいったのか、はずかしくないのか。1960年代に学生運動に私も参加したが・・・。

Cルールと倫理

Q:ルールは倫理に通じるとおっしゃったが、ルールは社会の規範で最低のものは法律。倫理は法律とは違うレベルで、法律を越えたものではないかと思うが。法律は時の権力によって作られるが、倫理はそれを越えて批判的に見る視点を与えるものではないか。

A:ルールは価値を含む。狭い意味でのルールはおっしゃったとおり。私が言ったルールとは広い意味で、秩序を社会にもたらすもの、価値観、常識のようなものとして言った。

Dアジアと西洋

Q:相手が期待にこたえてくれると信じることという定義は、日本人的であり、アングロサクソンでは相手がいかに自分を信じるようにさせるかという感覚ではないか。

A:社会と個人の関係性について2つの立場があります。社会は個人が集まっているにすぎない、社会とは個人の集合についた名前に過ぎないという立場がアングロサクソン的立場です。その一方で、社会というものがまずあって、人はその中に生まれてきてはじめて個人足りうるという立場です。すなわち、社会は個人を離れて高次に実在性を持つという立場であり、東アジアなどはこれに近いと思うし、ヘーゲルもそうです。これはコミュリタリアニズムということもできます。私はどちらかというと後者の考えに近いと思います。

Q:日本では別世界に行くときに、水平方向のトンネルがイメージされ、西洋では垂直方向の移動がイメージされます。水平方向の移動では自分の意思による移動であり、垂直方向の移動は、不思議の国アリスで穴に落っこちて別世界に行くように自分以外の意志(重力?神の意志?)による移動なのです。日本では個々人が水平につながり、西洋では人々は直接つながりあっておらず、神を通じてつながっているという部分があると思います。私は日本語で話すときは、日本的な考え方をしていると思います。今、日本固有のものが守れるかせめぎあいの時代だと思います。