1.はじめに
私が社会人になったのは、バブルが絶頂だった平成元年(1989 年)のことで、バブルはその翌年の平成2年(90 年)に崩壊を始めまして、日本経済は右肩下がりになっていきました。そうした時代を背景にして、金融機関の不正融資、背任、あるいは不良債権、粉飾決算、役所との癒着などの問題が表に出てきた。私は主に社会部の記者として、経済事件を取材する機会がありました。
取材の過程で、私どもは、会社なり役所なりの組織の人に対し、個人宅に夜や朝に伺ったり、あるいは、仕事の帰りを駅や道で待ち伏せたりして、水面下でアプローチし、何とか内密に話を聞き出そうとするわけです。先方から「きちんとした説明をしたい」ということで、――それは内部告発という側面もあるのだと思うのですけれども――、内部の人からインサイド情報を聞くことができ、それをもとに記事にした、ということもありました。
「内部告発者保護」というのがテーマとして面白いのではないかと考えて同僚とともに取材を始めたのは2002 年のことでした。2002 年10 月に朝日新聞の紙面で「自浄のホイッスル」というワッペンをつけてシリーズ記事の掲載を始め、そういう記事をだいたい半年ぐらいで30 本ほど出しました。そのうち私の記事をまとめたのが、先ほどご紹介いただいた『内部告発の力』という本です。
きょうは内部告発者保護(公益通報者保護)というところを縦軸の話として、それにからめて、(1)ウソはなぜ厳しく糾弾されるようになったか? =適時・適切な情報開示、説明責任への要請(2)だれへの忠誠なのか? だれのために働くのか? =コンプライアンス、株主主権への目覚め(3)組織の統治(ガバナンス)という視点の登場=リスク管理、相互牽制の必要性の認識――という三つの観点をいわば横軸にして話していきたいと思います。
2.ウソをつくということに対する風当たりの激化
不正・不備・不祥事(第一次的な問題)そのものより、むしろ、それらを隠すこと、ウソで取り繕うこと(第2次的な問題)がより大きな不正・不祥事であるとみなされる傾向が強まっています。そういう傾向が強まっていることが背景となって、内部告発、内部通報への関心が高まってきたのではないかというのが一つの問題意識です。
昔は、たとえば、政治資金収支報告書にウソを書いたとか、企業の有価証券報告書に虚偽を記載したとか、あるいは、ライブドア事件などで問題になっているように不正確な情報を発表して投資家をミスリードしたといったような不正は「形式犯」軽い犯罪に過ぎないと一般にみられていました。しかし、90 年代後半以降、それは変わりつつあります。
行政当局にウソを報告したこと、市場に対してウソ情報を流したことに対する司法の対応の峻厳さはここ10 年でとみに高まってきたといえると思います。
大和銀行のニューヨーク支店というところで、今から10 年ちょっと前に、エグゼクティブ・バイス・プレジデントという地位にあった井口さんという人が、銀行のお金を勝手に使って、帳簿外でいろいろなトレードをやって大損を出して、それを隠していたという事件が発覚しました。井口さんが捕まるのはしょうがないことだと思うのですけれども、大和銀行自体も罪に問われました被害者であるはずの大和銀行が何の罪に問われたか――。 井口さんから告白の手紙を得たときに、大和銀行は大蔵省からの指示で内密に事件の処理を行い、すぐにアメリカ当局には報告しなかった。そのことに対して、アメリカから罪を問われたのでした。
三菱自動車という会社は6年前、それまで30 年近く車の欠陥に関する情報を隠していたということを暴かれました。欠陥車があるという一時災害に対して、隠すという2次災害が責められました。しかも、三菱自動車は運輸省からの調査が入ったとき、証拠書類を隠蔽したり改ざんしたりしました。また、責任者を処罰することをしませんでした。その結果、2004年になって2000年の発覚当初の社長が逮捕されました。
このように、以前とは比べものにならないほどに、ウソが厳しく糾弾されるようになったのです。内部告発する声が上がってきた以上は、それをもみ消したり、無視したりするということは、二次災害、三次災害を引き起こすことにつながり、それらは一次災害よりもはるかに大きな経営レベルの不祥事になるということが現在の認識の流れになってきました。
3.だれのために働くのか
だれのために私たち会社員は働いているのか、忠誠を尽くすべき相手はだれなのかということへの疑問です。おそらく以前は何の疑問もなく、みんな「社長や上司のため」すなわち「会社のため」と考えられていた。しかし、それについての認識や考え方が非常に、多様化してきて、説明責任を果たすべき相手先、情報を開示すべき相手先が多様化し、拡散し、相対化されて、そこから内部告発への関心も高まってきているといえるのではないでしょうか。
昔、千代田生命という生命保険会社で、常務取締役が、週刊誌に内部情報を漏らして会社は損害をこうむったので会社に賠償金を払えと会社から言われて、裁判の結果、会社が勝訴しました。しかし、情報を漏らした内容は、社長の不正融資や破綻的人事の問題でした。社内調査の結果、この社長の行為は会社に損失を与えてきたことがわかり、社長も会社への賠償命令を受けました。生命保険相互会社というのは一般の契約者がたくさんいて、その人たちが一種の株主、会社の主権者という立場にあるわけです。その人たちに会社の実態を知らせることが果たして会社に対する忠実義務違反になってしまうのか。社長の経営の実態は、保険契約者にとって、知らされるべき情報ではなかったか。社長を追い落とすことこそが「会社のため」だったのです。
破綻した銀行とか金融機関とかの広報部の人に取材しても、破綻する前は、うちは不正をしていないと説明をし、破綻したあとは、新しい経営陣に協力して、「うちの旧経営陣というのはとんでもない不正をやっていました」ということを説明しなければいけない立場になるわけです。だれのために働いてきたのか、働いていくのかという問題を突きつけられます。
破綻とか倒産とかの有事のときだけでなく、平時においても、広報部の人や内部監査とか品質管理とかの部門の人、広くは組織の構成員すべてが、だれに忠誠を誓うのか、だれのために働くのか、という問題を意識すべきということになるのでしょう。
刑法に「とりもくてき」という言葉があります。「自己もしくは第三者の利益を図り、本人に財産上の損害を加えたときは、背任罪となる」という規定があり、この「自己もしくは第三者の利益を図り」というのを一口で言って「図利目的」と言っています。この「自己」というのは、会社の社長や役員、あるいは融資担当者などの任務者ということになります。「本人に財産上の損害を加えた」というときの「本人」とはだれになるのかというと、例えば銀行でいうと銀行そのものになりますし、会社であれば会社そのものになります。普通、背任罪で「図利目的」といえば、10 年ぐらい前までの感じでいうと、取引先からリベートを受け取って、その見返りに取引先によい条件を提示してやったというのが典型でした。一方、ここ10 年来、いろいろな金融機関の旧経営陣が国策捜査によって起訴されて有罪判決を受けていますが、彼らの有罪の根拠となった「図利」というのを見ると、リベートを受け取った事例、いわゆる私腹を肥やしたというケースはあまりない。大部分は身ぎれいな人たちです。サラリーマン経営者ですから、そんな悪いことはしていないのです。彼らが背任罪に問われた際の「自己の利益を図った」というのは何なのかというと、責任問題の発生を回避して自己保身を図ったということでした。それが背任罪における図利目的に当たると捜査当局や裁判所によって認定されています。これについては、そんなもので背任罪にするのは何か法の趣旨に沿わないのではないかという批判もあるようです。でも、現実には、これはほぼ認められて判例になっていると思います。ここ10 年ほどの傾向です。「追い貸し」という言葉があります。バブルのころに融資したのが、バブル崩壊で不良債権になり、会社も倒産しそうになっている場合に、これを倒産させれば、その会社もかわいそうだし、うちの銀行にとっても損失が表面化して大変な事態になる。そういうときに、将来いつかはまた景気もよくなってくるだろうから、今はとりあえず利息分についてはどんどん追い貸しをしていって延命しよう、先送りしようというのが追い貸しです。そういう追い貸しは、本人すなわち会社のためではなく、役員個人の私利を図った背任行為であるといえるか? そういう追い貸しに関与した人を背任罪で処罰していいのか? かなり微妙な問題だと思います。ここ10 年くらいの当局の捜査では、損失が表面化して会社がつぶれるのを防ぐために会社のために追い貸しした」というような容疑者の主張はたいてい退けられて、判決では「責任問題の発生を回避しようとする自己保身の目的によるものと推認することができる」ということで有罪となっているようです。
先ほど、背任罪の規定に言う「本人」とは、金融機関ならばその銀行そのもの、会社ならば会社そのものであると言いました。その本人に対する背任があったかどうか判定する際に一つの要件となるのが、本人である金融機関や会社の財産上の損害の有無なのですが、その点については、お金の問題ですから、割と、本人のためになったか損になったかは判定しやすい。しかし、例えば公務員についてはどうなのか。「国家・国民のため」と政治家はよく言いますが、そうした政治家にやっていることが本当に国家・国民のためになっているかどうか疑問がかなりある。「お国のため」という言葉の意味も戦前、戦後で変化してきています。今の国民が幸せならばいいのか、将来の国民に対する責任はないのかなど、いろいろなことを考えることができます。
技術者はだれに対して責任を負うか。これは札野先生の論文の中から引っ張らせていただいたのですけれども、さまざまな相手先を考えた上で、最終的には、パブリックの安全をすべてに優先させるべきであろう。
法律で任務や使命を決められている職種があります。たとえば、弁護士は、クライアントのために働くという契約上の義務がありますけれども、法律的には「基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」と弁護士法に定められています。クライアントが弁護士に対して、本当はこうなのだけれども、ちょっとウソの弁護をやってくれ、何か違法な書類を作ってくれといったことがあったときに弁護士はそれに従うのではなく、むしろ真実を裁判に反映させるよう努めるべきである。そう思います。公認会計士がクライアントの企業の会計監査にあたるとき、場合によっては、公認会計士はその企業の不正を明らかにして、株主に公開するように指導しなければなりません。報酬をもらっている相手先企業の恥部を明らかにするのです。それが、株主や市場、社会から期待される公認会計士の役割であり、公認会計士法でもそういうふうに定められています。
何にコンプライすればコンプライアンスか?ということを考えてみます。「だれのために働くのか」というのを「だれの満足のために働くのか」「だれのどういう期待に応えるべきなのか」というふうに言い換えて考えれば、それはすなわち、コンプライアンス(compliance)の問題ということになります。comply with というのは、いろいろな法律であったり、社会の慣習であったり、ルールであったり、そうした規範を満足させる行動を採るという意味なわけです。それもまた、そう単純な概念ではない。例えば、新聞記者は取材源を秘匿しなければならない。私たちジャーナリストはそれを職業倫理と思っています。「あなたが内部告発者であるとは絶対に外には出しません」ということを約束して内部者から情報提供してもらうことによって真相に迫る記事を書くことができる。そのことが民事訴訟になることがありますし、刑事裁判になることもありますけれども、記者は、情報源はだれか、内部告発したのはだれか、ということについて証言を求められたときには、それは拒否しなければいけません。それは証言拒否罪という犯罪に当たるかもしれないのですが、ジャーナリズムの倫理としては、たとえ犯罪に問われようとも、証言を拒否する。それがジャーナリストにとってのコンプライアンスの実践であるわけです。ですから、法令遵守、法律を守ることがコンプライアンスだというふうに言いきれない面もあるのです。一般に公正妥当と認められる基準(Gap:Generally accepted principal)といいますか、一般に世の中に認められている基準というのが何かあって、それを満たすことこそがコンプライアンスなのではないかと思います。それは必ずしも法令に従うことではなく、そのときどき、その基準を考え続けなければならない。
金融機関の経営者にしても、背任罪や追い貸しにしても、児童虐待にしても、政治家や公務員にしても、どういう規準にコンプライするべきか、ということが時代とともに変化する。そうした変化は、だれのために働くのかということについての考え方の変化と、裏腹の関係にあると思います。
内部告発に対する世の中の見方の変化も同じだと思います。密告という言葉はすごく悪い言葉だと思うのですが、内部告発にしても、密告にしても、現場のある情報を別の場所のある相手に伝えるという行為そのものは、ニュートラルな無色透明のイメージの行為だと思うのです。ただ、その意図や目的、すなわち、「何のために」という部分が違うのです。内部告発というのは、自分の個人的利益を犠牲にして、いろいろな報復を受けるかもしれないけれども公衆の利益のために働くというものです。一方、密告というのは、オフィシャルズの利益のため(お上のため)に、あるいは、全体主義国家のため、当局のために、自己の利益を目的としている。そういう違いがあります。独裁主義、独裁的な体制の国では内部告発者は弾圧されて密告者がはびこる。密告と内部告発は、行為の外形の一部を見れば、似た面もありますけど、概念としては、対極にあると言ってもいいくらいの距離がある。
だれのために働くのか、何にコンプライするべきなのか、それらは一義には定まらず、さまざまな議論がありうると思います。そういう相対主義的な問題意識、忠誠を誓うべき相手に対する概念が多様化、相対化しているということを背景として、内部告発というのが以前より出やすい環境ができているということもできると思います。そういうことで、内部告発、内部通報のポジティブな面がクローズアップされているのかなと思います。
4.組織の統治(ガバナンス)という視点の登場
今、ガバナンスの欠如ということがよくいわれています。コーポレートガバナンスという言葉、概念が流行しています。
ずっと戦後、戦前もそうだったのかもしれませんが、日本経済というのは、ざっぱくにいえば大蔵省があって、その護送船団行政の下に銀行など金融機関が守られてあって、そのほかのいろいろな事業会社はメーンバンクのコントロールの下にあるというピラミッド型の構造で統治されてきたのではないかと思います。しかしご承知のように、護送船団行政もなくなりましたし、メーンバンクが事業会社を管理する力も小さくなりました。証券市場が発達したことによって事業会社が直接に市場からお金を取るようになった、銀行からの間接金融ではなくなったということでメーンバンクシステムが希薄化された。金融機関の破綻が相次いで大蔵省も解体されて護送船団行政がなくなった。バブルの発生と崩壊がそうした流れを後押しした。そういうふうにして戦後日本で長らく続いた経済の統治構造が90 年代半ばに消滅してしまった。
それまでは、護送船団行政やメーンバンクシステムにより、銀行や企業はチェックされ、管理され、極端に言えば、統治されてきました。そうした統治(ガバナンス)が10年くらい前からなくなっていきました。統治がなくなったからこそ、さまざまな不祥事が表沙汰となり、金融機関の破綻が次々と起こったともいうことができると思います。そして、そうした戦後長らくの統治構造に代わって、言葉本来の意味のガバナンスが意識され、重要視されるようになってきたというのがあると思います。
会社ならば、本当は株主総会があって、取締役会があって、代表取締役がいて、監査役がいて、相互に牽制・監視しあうという形で権力を分立させなければいけない。国家における立法、行政、司法と同じようにチェック&バランスを働かせなければならない。それが法律(会社法制)の建前なわけで、それを実態にしなければならない。コンプライアンスを意識した経営を行い、さまざまなリスクを組織全体で管理しなければならない。そんなことは昔の会社ではほとんど意識されていなかったと思いますが、ここ10 年ぐらいは、多くの企業や組織が意識しています。
さらに言えば、もともと株式会社というのは欧米から輸入された仕組みだったこともあって、アメリカやイギリスなどのグローバルなスタンダードに合わせなければいけないという意識も高まってきています。そのようなことを背景にして、アメリカ、イギリスは内部告発者保護の制度面では先進国ですので、それを見習おうという動きが出てきているという面もあると思います。
ご承知かと思うのですが、今、大手企業のほとんどで内部通報システムというものを社内のリスク管理、あるいはコンプライアンスのプログラムとして持っていると思います。
要するに内部通報者を保護して、内部通報を社内的に有効に生かしていこうという制度です。それらはガバナンスの一つの手段と位置づけられています。こういう動きが出てきて一気に広がったのが2000 年以降ということになります。というような90 年代半ば以降の潮流の変化を背景にして、公益通報者保護法が一昨年に制定され、この4月1日から施行されるわけです。
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