1.リスクとは
リスクは、狭義には「被害の重大性×被害の生起確率」として定義される。しかし、この場合、被害の重大性や生起確率が測定されないもの(リスクアセスメントできないもの)は、リスクとみなされない。
それに対して、広義には、アセスメントできないものもふくめてリスクということもある。
2.リスク・コミュニケーションとは
「リスク・コミュニケーション」とは、「リスクについての個人、機関、集団間での情報や意見のやりとりの相互作用的過程(米国研究評議会、1989)と定義される(図1)。「リスク・メッセージ」が送り手から受け手への一方的な情報伝達を指すのに対して、「相互作用過程」として定義されているところがポイントである。
3.リスク・コミュニケーションの歴史
用語としての初出は(おそらく)1984年である。しかしそれ以前に、1983年に最初の研究プロジェクトがあり、1980年には言葉こそ使われていないものの、内容的にはリスク・コミュニケーションを論じ“Informing people about risk”というタイトルの論文が発表されている。
リスク・コミュニケーションについての初めての会議はアメリカで1986年である。ヨーロッパでの初めての会議は1988年であった。このような中、定義らしい定義が最初になされたのは1986年であり、1989年の米国研究評議会での定義が「決定版」とされている。
4.リスク・コミュニケーションの考え方が現れた背景
リスク・コミュニケーションの考え方が現れた背景としては、これは、知る権利を重視した一種の社会運動としてとらえられるのではないか、と言われている。心理学的には、これまでのコミュニケーション研究に関する知見が「リスク」に関するコミュニケーションにも応用できるという状況であった。新しいことばを必要とするのは、新しい「考え方」の浸透を目指すからであり、何らかの新しい「考え方」への動きがあったということも言えるだろう。
5.リスク・コミュニケーションに関する義務と権利
リスク・コミュニケーションにおいて、情報の送り手には、4つの義務があるといわれている。それは、実用的義務、道徳的義務、心理的義務、制度的義務である。実用的義務とは「危険に直面している人々は、害を避けられるように、情報を与えられなければならない」というものである。「道徳的義務」とは「市民(citizen)は選択を行うことができるように、情報に対しての権利を持つ」というものである。「心理的義務」とは「人々は情報を求めている。また、恐怖に対処したり、欲求を達成したり、自らの運命をコントロールするのに必要な知識を否定するのは不合理なことである」というものである。「制度的義務」とは「人々は、政府が産業リスクやその他のリスクを効果的(effective)かつ効率的(efficient)な方法で規制することを期待している。また、この責任が適正に果たされていることの情報を受けることも期待している」というものである。
一方で、消費者にも4つの権利があるということがいわれている(1962年ケネディ教書)。それは「安全を求める権利」「知らされる権利」「選択する権利」「意見を聞いてもらう権利」である。
リスク・コミュニケーションにおける情報の送り手の4つの義務と、消費者の4つの権利は、極めてよく対応していることに気づく。「実用的義務」は「安全を求める権利」につながり、「道徳的義務」は「選択する権利」につながり、「心理的義務」は「知らされる権利」に対応する。
「制度的義務」が「意見を聞いてもらう権利」にうまく対応するかは疑問が残る。
6.リスク・コミュニケーション上の問題
リスク・コミュニケーションにおいて問題が起こる場合、2つの場合が想定される。一つは、送り手に4つの義務を果たす意思がない場合。もう一つは、送り手に4つの義務を果たす意思があるが、それを実現する技術的問題がある場合である。後者には、心理学の知見が役立つ。
7.個人的選択と社会的論争
リスク・コミュニケーションを考える場合、リスク回避に関する2種類の状況に分けて考える必要がある。 一つは「個人的選択」のケースで、リスク回避をするかどうかは最終的には個人の判断にゆだねられている場合(personal choice)である。もうひとつは「社会的論争」のケースで、公的なルートを通じてリスク回避をはからねばならない(話し合いなど)、一人では決められない(public debate) 場合である。
「個人的選択」に入るケースとしては、消費生活用製品に関すること、健康・医療問題、災害(自然災害、科学技術の事故)に関することである。これらでは、人々は、リスクの見積もり(認知)をあまくする傾向があり、そのため、コミュニケーション技法として説得技法を使っても良いとされている。
一方、「社会的論争」に入るケースとしては、高度な科学技術や環境問題などがある。これらでは、個人的選択が有効でなく、集団としての合意形成が必要であるため、説得技法を使ってはならない、といわれている。
8.リスク・コミュニケーションの基本的な手順
リスク・コミュニケーションの基本的な手順としては、人々の意見の把握、資料作り、説明あるいは意見交換、問い合わせ対応、という手順が考えられる。
まず、人々の考え方の把握方法である。第一にアンケートである。基本的には閉じた質問(選択肢)を用いる。この方法の長所は、全体的な傾向がわかることであり、短所は、「どのように」考えているのかがとらえにくいことである。第二に、問い合わせ,質問の内容から関心を探るという方法が考えられる。これは、基本的には開かれた質問である。長所:「どのように」考えているかわかることであり、短所は、量的に把握しにくい(質問の記録によってカバー)ことである。第三に、小規模なインタビュー(フォーカスグループインタビュー)の実施という方法もある。これらの資料が得られないときは、現場の経験を聞くという方法もある。
代表的な手法、戦略としては、説明資料作り、Q&Aまたは想定問答集、説明会、対話集会、シンポジウムなど、といったことが考えられる。小集会の実践例としては、CAP(地域対話)、コーヒークランチ、コンセンサス会議などの方法論がある。ここでは、話をまとめるファシリテータ(facilitator)の役割が重要になってくる。
9.住民参加に関する心理学的知見
住民の参加に関しては、二つのことが言われている。一つには、住民は、発言の機会(voice)が与えられると公正感がより感じるようになる、ということである。過程コントロール(発言の機会があること)の方が、決定コントロール(決定に参加する機会があること)よりも公正感が高まる、という心理学的事実が知られている。二つ目として、これは住民参加に対する理論的な支援となる心理学的事実であるが、話を聞いたあとの実行率は、講義形式で話を聞くよりも、集団討議形式で話を聞いたときの方が実行率が高くなる、ということが知られている。これらの事実は、使いようによっては、悪用もできる心理学的知見である。
10.集団の意思決定について
心理学的には、みんなで決めることがかならずしも最良の決定とならない、ということが知られている。危機にあたって愚かな意思決定をする専門家集団 の問題、集団浅慮(groupthink)の問題がある。そのメカニズムを説明することとして「隠れたプロフィール」ということがあることが指摘されている。
集団浅慮とは、内集団の圧力によって、考えていることが現実場面に適切に当てはまるかどうかを検証する能力や、問題の道義的側面に対する判断力が損なわれる現象、である。有名な事例としては、ケネディ大統領のキューバ侵攻や、チャレンジャー号爆発などが挙げられる。集団浅慮につながる要因としては、時間圧力、多数決原理への無批判的信奉、決定のために必要な知識や技術が特殊(理解するメンバーが限られると、全員に周知されないまま決定される)、関係者の不在(問題や決定の深刻さが理解されない)といったことが指摘されている。
集団浅慮を防ぐためにはどうしたらいいのだろうか。それには「多数意見に反対する人を立てて、意見を再検討させる」「集団をいくつかにわけて別々に検討させる」「リーダーが批判的な傍観者の立場を意識的にとる」「内部告発者(whistle blower)が存在すること」などの状況が有効であるといわれている。
11.内部告発の難しさ
内部告発については、下記のような問題が存在することが指摘されている。まず、通報者が問題に気がつかないと通報しないという問題である。次に、通報者が善意でないと通報されない(しかし、倫理的でない人は常に存在)という問題であり、フォード(Pinto Car)、韓国のくず大根入り餃子の例などがある。さらに、通報されないとリスク管理機関は問題を発見できないという問題もある。三菱自動車のリコール隠し、鳥インフルエンザの通報の遅れなどがこれに当てはまる。また、内部告発は、実際にはまれであるということもある。内部告発者のその後はほとんど悲惨であり、大体の場合において、内部告発は、女性で、昇進の野心のない、あるいは可能性のない者によってなされているという歴史がある。
12.ネガティブな情報の伝播
ネガティブな情報の伝播に関して、知られているいくつかの心理学的事実がある。一般に、よいニュースと悪いニュースではどちらが伝わりやすいのだろうか。心理学的には、人々はよいニュースよりも悪いニュースを伝えたがらないということが知られており、これはMUM効果と呼ばれる。伝播の速度については情報の望ましさはあまり影響しないことが知られているが、人事に関わるうわさなど内容によっては早く正確に伝わると言うことが知られている。
MUM効果の主要な研究成果としては、ネガティブな情報は当事者よりも周辺他者に伝えられる」「良いニュースの方が悪いニュースよりも詳しく伝えられる、情報は、男性より女性の方が、昇進の欲求が高い人よりも低い人の方が、伝え手になりやすい、男性より女性の方が、魅力的でない人よりも魅力的な人の方が情報の受け手になりやすい、といったことが知られている。MUM効果の意味するところは何であろうか。一つには、組織の中でネガティブな情報はなかなか伝わらないということである。例えば、雪印乳業では、工場長が株主総会中の社長に食中毒情報を伝達しなかった。また、内部告発が問題になっているが、これは現実にはなかなか起こらないことである。二つ目には、ネガティブな情報は控えめに伝えられやすい、ということである。例えば、医師は患者に病気について控えめに伝えやすい。その結果、生活習慣病、慢性病の患者の自己管理がおろそかになるということもある。
MUM効果のほかに、ネガティブな情報は曖昧に伝えられやすいと言うことも知られている。つまり、ネガティブな情報は、equivocalに伝えられやすい(多義的なコミュニケーション:equivocal communication)ということである。Equivocalとは、意図的に曖昧にするということで、政治的な文脈でしばしば使われる。英語でいえば、助動詞、副詞を慎重に選択し、あるいは遠回しな表現をすることを言う。例えば、薬害エイズ事件で、血液製剤(エイズ研究班第1回会合)での厚生労働省担当は、「参考の出来事としてお聞き頂きたいのですが・・・」と言って情報を伝えた。
13.隠れたプロフィール
議論に関する心理学的事実として、メンバー間で共有されている情報は非共有情報に比べて議論されやすいと言うことがある。情報を共有するメンバー数が増すほど、共有情報はいっそう優位となる。すなわち、完全な情報交換を目指してメンバーが誠実に努力することが、かえって共有情報の優位性を増す。
14.集団で考えることの功罪 ―まとめ
すでに述べたが、このように、心理学的には、みんなで決めることがかならずしも最良の決定とならなく、集団の中の最優秀の個人のまかせて独裁をさせるのがいい、ということなのであるが、現実には、私たちは、そのような方法はとらず、集団で決定を行っていっている。それは、何が最良のお答えなのかは最後までわからないということ、誰が最優秀なのかはわからないということ、そして、私たちは、もはや独裁を拒否するという民主的な社会で生きているからである。
ネガティブな情報は伝わりにくい、あるいは曖昧に表現される、多数派の意見が強力、といった集団の決定の持つ限界を知りながら、しかし独裁を認めないことが重要なのではないだろうか。
15.今後必要な議論
今後、より深めていく必要のある論点としては、下記のようなものがあると考えられる。第一に、合意形成技術のあり方、第二に、自己責任による個人の選択と言えないような特別な配慮があるべき人に対してどうするかという問題、第三には、ハザードの大きいリスクについてどうするかと言う問題、地域別不公平といったことに関する社会的な公正をどうとっていくか(リスク/ベネフィットの不公平な配分)という問題、第四に、初期の警告の見落としに対する反省(予防的な施策に対する関心の高まり)などである。
質疑応答
1.隠れたプロフィールにおける情報について |
Q |
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隠れたプロフィールについての質問ですが、共有されやすい情報と共有されにくい情報には何かの違いや特徴がありますか。 |
A |
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隠れたプロフィールの議論では、特にその部分については、考えません。単に、共有されている情報のほうが、結論としてそれになりやすいということです。
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2.リスク・コミュニケーションにおける送り手の4つの義務 |
Q |
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リスク・コミュニケーションにおける送り手の4つの義務については、送り手が義務を果たす意思があるが実現する技術的な問題がある場合は心理学の知見が役に立つが、義務を果たす意思がない場合は解決が難しい、ということをおっしゃいました。しかし現実には、より後者のほうがより問題なのではないかと思うのですが。 |
A |
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義務を果たす意思がない場合どうするか、という問いは私の守備範囲外です。前者は心理学の問題ですが、後者は倫理学の問題であると思います。
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3.国民性の違い |
Q |
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70年代の終わりに、ある国際的な雑誌で、倫理の問題でのケーススタディで読者アンケートがありました。日本人からは一人も返事が来なかったそうです。国民によって心理的傾向が違うのではないかと思いますが、どうでしょうか。たとえば、韓国の人は攻撃的に話をします。日本人の場合、相手のことを気にしていわないとか自分のことはそんなに言わなくていいという傾向がある。アメリカ人はジャンジャン言う国民性。技術倫理でもアメリカは60年、70年、80年とかに勢いをもって出てきたけれども、ほかの国ではあまり表に出てこないけれども少しずつ進んでいるという違いを感じます。 |
A |
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国民性については、私は比較したものを知らないのでお答えができません。心理的には、昇進を気にしている人は言わないわけです。ですから、日本とアメリカ、ヨーロッパに違いがあるとすると、トップやリスク管理機関が聞く気持ち受ける気持ちがあるかどうかの違いのほうが大きいかと思います。
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4.医療倫理と技術者倫理の違い ―インフォームド・コンセント |
Q |
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医療倫理と技術者倫理を比較したときに、何がいちばん違うかということは、一つはインフォームド・コンセントが成り立たないということです。医療の場合は、リスクを被る人というのは対象が限定されているのでインフォームド・コンセントが成り立ちやすいが、工学の場合には物を作って市場に出てくるのでそのリスクをどうやって伝えたらいいのかという問題があり、インフォームド・コンセントが成り立たないという指摘があります。だとすると、工学製品の場合には、個人的選択というのも難しいのではないかと思うのですが、どうでしょうか。 |
A |
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その作るものは製品ですか。インフォームド・コンセントの理解が私自身はよくないのかもしれませんが、それは例えば注意書きや取扱説明書ではだめですか。努力する価値はあって、いろいろ工夫はできるのではないかと思います。今の2つの領域であれば、差はないと考えています。
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5.手続き的公正 |
Q |
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過程コントロールと決定コントロールの話の中で、過程コントロールのほうが一般的に人々の満足度が高いという話があったと思いますが、その言い方は誤解を生みやすく適切ではないのではないか。原発問題とか遺伝子問題、あるいはナノテクの問題などのリスクを考えたときに、ガス抜きをすれば人々は満足をしてくれるのではないかと官や学が受け止める可能性が高いというお話でしたが、話し合っても何も変わらない、最初から答えは決まっている、という状況にこそ人々はフラストレーションをためているのです。 |
A |
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おっしゃるとおりです。心理学の技術は、使いようによっては悪用されるという性質はぬぐえません。ただし、研究結果としてのデータは頑健に出ているので、それはそれとして事実を伝えたのです。悪用については、悪用しないでくださいとしかいいようがありません。
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6.リスクの定義 |
Q |
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リスクの定義のところで「測定できないものは、リスクと見なされない」ということがありました。では、測定できないものは何というのですか。地震とかは予測ができないと思いますが、そのような突発的な災害はリスクから外れるのですか。 |
A |
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計算できるものをリスクといいます。予測がそれほど正しさを望めなくても計算はできるので、地震はリスクの中に入ると思います。それ以外のものは、狭義にはリスクとはみなされないということです。
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7.内部告発について |
A |
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内部告発については、一部上場のロックフィールドという会社では、社長が、まず告発したい問題があればまずは社長自身に言ってほしい、自分がアクションを起こさないときにはどんどん外部に発言してくれ、と言っています。このような構えの会社もあるということは、抑えておいてもいいともいます。
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8.リスクの歴史 |
Q |
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アメリカでは、1970年代、80年代に社会的政治的な不祥事件が続発し、会計学や刑法的な対応をしてきました。会計学上のリスク管理は、1980年代後半にCOSOレポートとしてまとめられ、リスク管理の体系的な提案が学者からなされました。また、1986年から量刑ガイドラインが刑法分野でスタートしました。心理学の分野では、このような事柄は考察の対象から外れるのでしょうか。 |
A |
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経営経済のリスクや法律は、今は考えておりません。
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9.個人的選択と社会的論争 |
Q |
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個人的選択には説得技法を使ってよくて、社会的論争のほうではだめだということについて、次のように理解したのですが、あっているでしょうか。個人的選択のリスクというのは、何をすると危ないのか、何をするとリスクとして害がないというのがすでに明確であって、したがって、こういうものはそういうリスクをいかに伝えるのが重要なので、こういう説得技術を使えばいい。しかし、社会的問題というと、例えば遺伝子の問題というのはリスクはリスクですが、科学的にここまでがよくてここまでがだめというのは決められなく、個々人がそれを受け入れられるかどうかという、世界観の分野に入ってきてきます。だから、そういうものに対してある特定の世界観を持った人が、それに基づいて説得技法を使ってはならない、というように理解したのですが、こうした解釈は正しいのでしょうか。 |
A |
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安全かどうかのリスク計算が科学的に明らかであっても、それが社会的論争の領域のものであれば、説得技法は使ってはならないということになっています。むしろこちらで問題となるのは、狭義のリスクで定義できないようなリスクも広く社会的論争の中に含めて議論しましょうということです。ですから、今言われたような意味では、社会的論争で扱うリスクの定義がちょっと狭いと思います。何が起こるか分からないままで議論しましょうというのは、政策的には非効率に見えたり、無駄なように見えたりするかもしれないけれども、それも慎重に見ていくということも含めて、この社会的論争の中に入ってくると私は思っています。
ですから、リスクがはっきり分かるかどうか、体感できるかどうかといった意味でこの二つを分けているわけではありません。
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