機械
山田一郎は、太平洋自動車工業でエンジンの設計に携わる入社5年目の若手技術者である。同社はその技術力に定評があり、特にその水平対向エンジンは高く評価されている。しかし、同社のシェアは小さい。シェアを伸ばすには、販売台数が期待できる小型車のマーケットに画期的な新モデルを開発・投入する必要がある。そこで、同社のアイデンティティでもある水平対向エンジンの小型新タイプを開発し、開発中の小型車に搭載することになった。一郎は、その新エンジンの燃料噴射制御装置の開発を任されることとなった。
水平対向エンジンは、ピストンが水平対向に配置されているため、上下方向の振動が少なく、また、エンジンの高さを低く押さえることが出来る。従って、同タイプのエンジンを搭載した自動車は、振動が少なく乗り心地が良いばかりか、車体の重心を下げられるので走行安定性も高い。しかし、その構造上、エンジンの横幅が大きくなる。横幅を狭めるにはピストンのストロークを小さくせざるを得ない。そうするとトルクが小さくなってしまう。このため、従来の水平対向エンジンは、比較的大きな車体のモデルにしか搭載できなかった。従って、水平対向エンジンを小型車に搭載するには、トルクを維持したままで横幅を狭めるという技術的ハードルを越えなければならない。
一郎はKIT大学で学んだ燃焼工学の知識を活かして、極めて精確に燃料の噴射・燃焼を制御するメカニズムを考案した。これにより燃焼効率は大幅に向上するため、ストロークを短縮してもトルクを維持できる。かくして、小型の新型水平対向エンジンが完成し、早速、同エンジンを搭載した小型車の新モデル「オーシャン」の生産・販売が開始された。市場の評判も上々で、「オーシャン」は同社久々の大ヒットとなった。
ところが、販売開始まもなくして、同社カスタマー・サービス部にクレームが入った。「オーシャン」運転中、突然エンジンが停止したというのだ。低速走行中のトラブルのため大事には至らなかった。修理センターに持ち込まれた「オーシャン」を調べてみると、燃料噴射制御装置のセンサーに大量の煤(すす)が付着していた。付着した煤によりシリンダー内のセンサーが誤動作して燃料供給が減少したため、エンジンが低速回転になった時に停止したことが分かった。更に良く見てみると、センサーの位置が設計よりも僅かに排気ポート側にずれていた。そのため、センサーが燃料の燃焼後に僅かに生じる煤に常に曝され続けたのだった。但し、センサー取り付け位置のずれは製造誤差の範囲内である。
同社久々の大ヒット車に関わるトラブルのため、社長出席のもとに各部門長と燃料噴射制御装置の開発担当の一郎が集まって、対策会議が開かれた。一郎は、センサーの取り付け精度が極めて重要であることを説明し、センサーの取り付け精度向上のための製造工程の改善案を説明し、更に、報道機関を通じて「オーシャン」ユーザーにリコール・キャンペーンを行うことを提案した。事業部長は、提案の工程改善が製造コストを10%押し上げることで営業店の販売価格設定の自由度が低くなり、売れ行きを落とすことにつながりかねないと指摘し、さらに、このタイミングでキャンペーンを行うと会社のイメージが損なわれると反対した。カスタマー・サービス部長は「今回のトラブルについては、ユーザー様は、保証期間内で修理費用は我々が払い代車の手配なども行うことで納得されており問題ありません」と報告した。品質保証部長は、「今回のお客様は相当「激しい」運転をされていたようです。「オーシャン」の主要ユーザー層は30代の女性であり、今回のように煤が多量に発生する高回転域で長時間運転することはめったにありません」と意見を述べた。一郎は発言しようと手を上げたが、会議の参加者全員に睨まれ、発言することができなかった。最後に、社長が「リコール基準に達するほどのことでもないようだし、同様のトラブルが再び発生したらキャンペーンを行おう」と締めくくり、会議は終わった。
釈然としない一郎は、上司のエンジン設計課長に「基準に関わらずこの問題の危険性は十分お分かりでしょう。設計課長として問題提起していただけませんか」と詰め寄った。しかし、設計課長は自身の異動に伴う後任との引き継ぎに追われており、「分かった分かった」と言うだけで行動を起こす気配はない。
もしあなたが山田一郎の立場ならどうするか。
野城智也・札野順・板倉周一郎・大場恭子編著:『実践のための技術倫理』、(東京大学出版会、2005)収録の事例「大洋自動車リコール隠し事件」に着想を得て作成