ミニ・ケース(10)消臭剤

バイオ・化学・経営情報

 野々市太郎はX&Y社の研究所で製品開発に携わる入社5年目の若手技術者である。X&Y社は、部屋用消臭スプレー「消臭Z」で有名な日用品メーカーだ。「消臭Z」は消臭スプレー市場で最大のシェアを得ており、大きな利益をX&Y社にもたらしている。しかし、後発メーカーが次々とこの市場に参入しており、X&Y社としては、新製品を早急に市場に投入する必要がある。そのため、その開発プロジェクトには大きな予算が配分されている。太郎は、そのプロジェクトの一員としてスプレー容器の設計を担当することとなった。
 新製品が「消臭Z」よりも優れた消臭性能を発揮するには、消臭成分を室内の隅々にまで拡散させる必要がある。そこで、消臭成分を改良することに加え、容器を従来のプラスチック製のレバー式スプレー容器からスチール製耐圧容器に変更して、噴射剤(LPG(液化石油ガス))を使って勢い良く消臭成分を吹き出させることにした。タイトな開発スケジュールにもかかわらず、太郎は、KIT大学で学んだ材料工学の知識を活かして、少ない材料と単純な構造で製造コストを抑えつつ、法令で定められた規格を満たす耐圧性能を有する容器を開発することができた。かくして、新製品「消臭Z+」は、春の引っ越しシーズンの前に販売を開始することとなり、テレビ・コマーシャル(CM)も作成された。
 そのCMの社内試写を見て、太郎は不安を覚えた。というのも、CMでは「消臭Z+」を自動車の車内で使っていたからだ。太郎は、従来品の使われ方(住居の室内での使用)を想定して容器の設計を行っていた。太郎が研究室長にその不安を伝えると、「CMのことはマーケティング部門に任せておけよ。あっちにはあっちのノウハウがあるだろう。規格で定められている耐圧性能は、身の回りで使うのに十分すぎるくらいなんだから、心配ないんじゃないか」と言われた。CMの効果か、「消臭Z+」の売れ行きは販売計画以上に好調だった。
 ところが、猛暑がつづいたその年の夏のある日、同社カスタマー・サービス部にクレームが入った。自動車の中に置いていた「消臭Z+」の容器が裂け、中身が噴き出したというのだ。幸い火災や爆発にはいたらなかったし、人的被害も無かった。カスタマー・サービス部が顧客に事故の状況を聞いたところ、顧客はCMを見て自動車内の消臭に「消臭Z+」を使うようになったこと、事故は車を炎天下に長時間、屋外駐車していた間に起きていたことが分かった。
 社長出席のもとに各部門長と容器の設計担当の太郎が集まって、対策会議が開かれた。太郎は、容器は住宅の室内で使われることを前提として設計していることを説明し、報道機関を通じて、「「消臭Z+」を車内に放置しないでください」という、緊急キャンペーンを行うよう提案した。事業本部長は、製品に問題はないし、容器には「可燃性 火気注意 温度が40度以上となるところにおかないこと」という警告も書いてあり法的に何の問題もない。CMは車内で「消臭Z+」を使っているだけだから、車内に置きっぱなしにしたのは我々のせいではない。今年の夏の暑さは異常だし、もうすぐ夏も終わる。キャンペーンには莫大な費用がかかるし、そんなことをしては売り上げにも響く、と反対した。クレームに対応したカスタマー・サービス部長は、「今回のクレームについては、お客様は我々が車の修理費用を支払うことで納得しておられるので、大丈夫です」と報告した。太郎は発言しようと手を上げたが、会議の参加者全員に睨まれ、発言することができなかった。最後に、社長が、あと一件でも同じような事故が発生したら、報道機関に通報することにしよう、と締めくくって会議は終わった。
 釈然としない太郎は、研究室長に「この問題の危険性は十分お分かりでしょう。研究室長として問題提起していただけませんか」と詰め寄った。しかし、研究室長は自身の異動に伴う後任との引き継ぎに追われており、「分かった分かった」と言うだけで行動を起こす気配はない。内容量を2倍にした徳用サイズの「消臭Z+」の販売が間もなく始まる。それだけの量の可燃性の噴射剤が自動車の室内程度の空間に漏れ出したら…

 もしあなたが野々市太郎の立場ならどうするか。

中村収三 他 編著:『技術者による実践的工学倫理』、(化学同人、2006)収録の事例「自動車用エアゾル製品」に着想を得て作成

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Applied Ethics Center for Engineering and Science, Kanazawa Institute of Technology
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