工学
富樫聡は、野々市鉄道(株)技術開発部で信号保安システムの開発に携わる入社5年目の若手技術者である。同社の鉄道事業は、I県の県庁所在地K市と南部の空港を結ぶ一路線である。沿線人口は多くないものの、空港利用客の大半がこの路線を利用しているので黒字運営を続けている。しかし、営業キロ数が約30キロと長いため、支出に占める設備維持費用の割合が高い。数年後に新幹線が開通すれば空港利用客数は大幅減となるだろう。そうなれば、一気に赤字路線に転落してしまう。そこで同社は生き残りをかけて、数年前から、設備維持費用削減のためのプロジェクトを立ち上げ、技術開発に予算を積極的に配分している。その中で、聡は、次世代の信号保安システムの開発に関わっている。
一般に、鉄道の信号保安システムには極めて高い安全性が求められる。野々市鉄道では、従来、信号保安システムの冗長度を高めるためにシステムの全てを二重に設備してきた。これにより、同社では、開業以来、信号保安システムの誤動作に起因するトラブルを起こすことなく、列車の安全運行を続けている。しかし、冗長性が高いことは、システムの設備維持・保守費用が高いことでもある。将来の利用客数の減少を考慮すると、黒字運営を続けるには、これらの費用を少なくとも30%は削減する必要がある。
列車の安全運行の肝は運行中の列車の位置を常に正確に把握することである。聡はKIT大学で学んだ情報通信工学の知識を活かして、従来の有線系のシステムとGPS(Global Positioning System:全地球測位システム)を組み合わせることを考案した。列車にGPS受信装置を設け、得られた位置情報を既存の列車無線を用いて運行管理部に送信するのだ。これにより従来の有線系システムを一重にしても、無線系のシステムと合わせて高冗長性を実現できる。この新システムでは、地上の固定設備をほぼ半減できるので、設備維持・保守費用を40%あまりも削減できることが見込まれる。かくして、実際の路線と列車を使った長期実証試験が始まった。試験開始からほぼ1年、新システムは大きな問題もなく機能している。
ところが、ある日、運行管理部から新システムに問題が発生したとの報告があった。無線系による位置情報が運行中の列車から送られてこなかったのだ。送受信データを解析してみると、列車が地形上電波強度の弱くなる地点をちょうど走行している時に、線路と並走している道路をたまたま列車と横並びで走っていた貨物車両から発せられたと思われる無線電波が干渉したことにより、受信不良が発生したためと分かった。但し、問題となる区間は100メートル程度の長さに過ぎず、同様の問題が生じる可能性は極めて低い。
列車の安全運行に関わるトラブルのため、社長出席のもとに各部門長と新システム開発担当の聡が集まって、対策会議が開かれた。聡は、システムの冗長性の維持が極めて重要であることを説明し、列車無線をノイズに影響されないようデジタル化することを提案した。営業推進部長は、無線システムのデジタル化を行うならば、それに要する多額の費用は運賃に転嫁せざるを得ないことを指摘し、そのことが利用者減少につながると反対した。運行管理部長は「同様のトラブルが起こる確率は極めて低く、しかも、それが問題となるのはその時に有線系のシステムがダウンしている場合に限られます。偶然がそれほど重なることは殆どあり得ません。」と報告した。鉄道事業本部長は「新システムへの一年後の移行を既にメディアを通じて公表済みです。無線システムのデジタル化を行えば、移行が半年は遅れることになります。今からの予定の変更は会社のイメージを損ないかねません」と意見を述べた。聡は発言しようと手を上げたが、会議の参加者全員に睨まれ、発言することができなかった。最後に、社長が「重大な問題が起こる可能性は十分低いようだし、同様のトラブルが再び発生したら再度検討することにしよう」と締めくくり、会議は終わった。
釈然としない聡は、上司の信号保安システム課長に「確率の高低に関わらずこのトラブルの重大性は十分お分かりでしょう。課長として問題提起していただけませんか」と詰め寄った。しかし、課長は自身の異動に伴う後任との引き継ぎに追われており、「分かった分かった」と言うだけで行動を起こす気配はない。
もしあなたが富樫聡の立場ならどうするか。
JR北海道が進めているGPSを活用した列車運行システム開発に着想を得て作成