都市の音環境 |
梅にウグイス |
環境庁の全国調査(1996年10月29日発表の自動車騒音調査)によると、道路沿いの環境基準達成率は依然として低い状態である。すべての時間帯で環境基準を達成したのは調査地点中12%程度の地点だけである。防音壁の設置、トラックの中央線より走行、吸音性舗装、様々な対策がとられているが、交通量の絶対的増大が大きく、環境騒音の現状は悪化しているといわざるをえない。
「日本の音風景百選」は、将来に残してゆきたい音として日本全国から公募された中から選定したものである。1996年6月に選定結果が環境庁より公表され、各地で話題となった。
守るべきものは何か、そして立ち向かうべきものは何か
音環境といった場合、問題の焦点は人によってかなり異なる。ある人は道路交通騒音が一番問題であると感じ、ある人は拡声器による音の押し付けが我慢ならないと訴え、ある人は建物の遮音という物理的技術の発展が住環境を向上させると信じ、ある人は環境保全における音の役割を説き、ある人は音によって快適な環境を作り出す手段はないものかと考えている。
音の問題とは技術的な問題であると同時に、非常に社会的な問題である。そして、単なる個人的な問題でない、人間と人間の関係をも含む。そのため、住みやすい都市環境づくりに、ただ一つの解決策があるものではない。人によって切り口が異なりアプローチは無数にある。
サウンドスケープは音から都市をみる
都市景観といった場合、全体的なバランスからすると視覚的なものに重点がおかれることが多かった。確かに情報のかなりの部分は視覚を通じて得ている。だが、音のない景観というものが考えられるであろうか。視覚的に評価した景観の揺らぎ成分でしかないという見方は一方的すぎる。
図1文1は都市景観をSD法によって評価したものである(被験者:男子大学生10名)。現場で五感を通じてとらえた景観の評価と、録音した音を聞いたときの評価、写真を見ての評価の三者を比較してほしい。写真と録音はいずれも現場実験時に記録したものである。一例であるので確たる事を言うわけに行かないが、音による評価が実際の現場での評価により近い状況もあり得るということを示している。このように従来の方法論の中では、見落としてしまうところがあることが徐々にわかってきた。
図 SD法による景観の評価
近年、サウンドスケープという言葉がかなり知られるようになってきた。この言葉はR.・マリー・シェーファー文2というカナダの現代作曲家による造語である。サウンドスケープとは、その場の環境全体を把握する場合に音を切り口としている。視覚的なことからだけでとらえきれなかった都市の諸相を映し出す鏡となるべき考え方である。日本とカナダでは文化的、音環境的背景は異なるが、日本人にとっては理解しやすいものであったようだ。
サウンドスケープの広がりと認知度
生活していく中で、どんな音でも私たちの心理状態に大きな影響を与えている。このことをまずは理解し、体感し、共有できていないと、音の問題は議論がかみ合わないことが多い。サウンドスケープとは結局のところ、「音を聞くことのできる耳」を持つための様々な試みすべてを包括する概念である。従って騒音制御と相容れないものではない。
「サウンドスケープは(快適な?)音を付け加えるものである。」というのは誤解である。この誤解はいつになったら解けるのであろうか。音を全く使ってはいけないというのも硬直的な考えであり、様々な社会的営みを円滑に進めるための必要充分条件を設定することが重要なことだろう。
誤解とともに過度な期待もあった。騒音問題に対して閉塞感をいだいていた人にとっては、ある種のブレイクスルーになるのではないかとの期待を持った人は多い。しかし、サウンドスケープ自体は、現状にたいする即効性のある対策ではない。直接的な騒音低下には役立たない。どちらかといえばもっと長い目で見た私たち自身の意識の転換をうながすものである。耳から考える環境教育として、音の問題をとらえる試みも現れてきたのも、半ば当然の成り行きのように思える。
今、これから
ありとあらゆる騒音を物理的に制御する努力。これは惜しむわけには行かないものである。そして、建築計画、都市計画に音を含めた五感による評価を活かす努力が必要だろう。梅にウグイスという副題であるが、このような景観が成り立つには、ウグイスのとまる木(下地となる物としての環境)と、ウグイスの声が聞こえる静けさ(聴覚からの環境)とが必要である。作り物の木にはく製のウグイスをおいたところで何になろう。真に快適な音環境のためには、本当の環境は何であるかをじっくり見すえた地道な環境づくりが何よりも必要である。
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