おわら風の盆

date:2000.9.18


序。

 越中八尾は、神通川の支流の井田川という小さな川に沿った谷あいの町だ。路地に並ぶ家々の軒下には「エンナカ」と呼ばれる水路が縦横に作られている。これは、冬場の雪を効率良く融かして通行をたやすくするための工夫である。

 坂が多いため、雪を積もったままにしておくと、とても歩きにくい。そのため雪かきをしなくてはならないが、このまちは、絹の生産など山の文化の土地であり、飛騨と越中の中継地として栄えたため、冬場に雪捨て場となる水田は少ない。斜面に貼りつくようにして、家が軒を並べている。そのため、飛騨山脈を背にして涌き水が豊富なことを利用して、水路から雪を川まで融かし流すという事が考えられたのだという。必要性によって生まれた、土地の風土をうまく生かした生活の知恵。

 石積みなどで作られたこの水路からの水音は、町を歩くといたるところから聞こえてくる。水路のある町は多いが、町全体が坂のため水の流れが速い。そのため音も発生しやすくなっている。「エンナカの水音とおわら風の盆」は環境庁の音風景百選にも選ばれている。

道連れ。

 八尾の音を聞こうという日本サウンドスケープ協会の例会企画のもと、協会からの参加者3名と、学生2名の5人という小ユニットでの行動となった。家族旅行でもなく、観光旅行でもないちょっと宙ぶらりんな集団である。

 集合は、9/2(土)17:00に八尾の駅前。ただ、どの列車も満員で遅れが出ており、全員そろったのは予定時刻より30分遅れだった。私は学生と車で早めに近くの駐車場へと来ていたので、運良く観光客のラッシュに巻き込まれずにすんだ。

第一印象。

 車を係員の誘導にしたがって駐車場に入れ、駅まで歩いた。駐車場は井田川のすぐ近く。土手に沿って歩くと水音がくっきりと聞こえる。水の雫のはじける様が手に取るようにわかるような音だ。大きな川は静かによどむか、堰で重たい音をたてるだろう。奥山深い急流だったらもっと強い音だったり、かしましい音になるだろう。ここは「せせらぎ」という言葉がぴったりする川だと思う。

 駅までの旧市街ではない街並は四角く区画され、どこにでもある新しい町という印象。駅を通り越して旧市街に続く駅前の通りに出る。それなりに古く、しかし建物の一軒一軒は物寂しげな町という印象。例えば、はげたペンキの木のサッシと、ゆがんだガラスのドアーの床屋。例えば、トタン屋根の倉庫の壁に、錆びた広告板。

 しかし、今日ばかりはその寂しさを覆い隠すように露店が並ぶ。やきそば、かき氷、くじびきといったありがちな露店ばかりだが、まっすぐに続く通りを埋め尽くす。その終わりが一体どこなのかわからないほどだ。そして、ひと、ヒト、人・・・。大人も子供も、住民も観光客も、浮き足立っている。

まずは探索。

 旧市街は駅から川沿いに登ったところにある。人の波に流されるようにして歩いている自分は、観光客とは少し違った気分。周りの浮かれ具合に、自分が逆に浮いてしまっていないだろうかと思ってしまう。きっと、この祭りを観察している自分を、強く意識しているためだ。

 旧市街に入ると駅前までの印象とはだいぶ異なる。生活の息を強く感じさせながらも、古い情緒のある街並を残している。格子戸の入った家もある。もちろん新しい家もあるが、スケールがそれほど違わないので気にならない。たくさんの数のぼんぼりが通りを照らす。

 街はさらに細かい地区に分かれ、地区ごとに異なる振り付けがあったりする。その拠点となっているのが地区ごとの公民館だ。公民館の前には人垣が大抵できていて、若い踊り手の子を捕まえて記念写真を撮っている人もいる。まだ高校生くらいのその子は、硬い表情で被写体となっていた。

宵の口。

 通りという通りはすべて人で埋め尽くされた。残暑の厳しさに人の熱気が加わって、汗が止まらない。喧騒の中、町を探索するが、坂道はちょっとつらい。

 河岸の広場に競演会場が作られている。ここにいれば、ひととおりすべての街の踊りと音を見学できる。観光バスもこの近くまで乗りつけてくる。が、観光用なので本当の祭りの様子とは違う。バスの誘導の声を張り上げるPAと、バスの排気ガスにつつまれてしまい、ここを見ていてもあまり面白くはない。それで、旧市街の中に戻る。

 時々ばらばらと雨が降る。傘をさして踊り流しを待つが、三味線や胡弓のような楽器は雨に弱い。予定されていた踊り流しも行われなかったりで、楽器の弾き手は個人のうちの中で楽しんでいたりする。格子戸越しに聞く音も悪くないが、いかんせん未だ観光客が多すぎてゆっくり楽しむ風情ではない。

 路地に入ったところでしばし休憩する。どこかの家の2階から小さい子どもの笑い声が聞こえてくる。いつもならもう寝なくてはいけない時間なのに、今日は祭りでどうにも寝つけずに騒いでいるのだろうか。

真夜中過ぎ。

 雨があがった。星が見える。もう時間を決めた踊り流しは行われないので、ゲリラ的に出没するのを追いかけて行くしかない。

 広見となった街角に演奏だけの組がいた。唄い手一人に三味線や胡弓・太鼓がつく。スピーカを通さない声は繊細なニュアンスをもって伝わってくる。プロの声ではない庶民の声は、てらいもなく純朴そのものだ。

 少し離れて聞いてみた。争うように見るよりも、心に染み入るような気がした。

朝まで。

 街の高台にある諏訪神社の軒先で仮眠した。街のあちらこちらからいろいろな音が聞こえてくる。団体の観光客は夜の1時には帰るので、観光客目当ての店も閉じる。そうすると祭り本来の静けさとにぎわいがやってくる。

 さっきまで列をなして踊っていた若者が、大きな声で歌いながら徒党を組んで走りぬける。男女でかけあうような囃声。優雅に踊っていたあの子たちの中にひそむ、猥雑とも思えるエネルギーを感じた。若さということを思う。生命という事を思う。

 空が白んでくる。踊り手はもういない。それでも歌や演奏はまだ続く。今、演奏しているのは夜中までは商売をしていた大人たちだ。着流し姿でゆったりと揺れるように歩きながら、街を巡る。決して大げさに騒ぐのではない、静かな楽しみ方。これは以外と路上でぽつんとギターを鳴らしているストリートミュージシャンにも実は通じるものかもしれない。

 小鳥たちがしきりに鳴き出すころ、路上に人の姿はほとんど見られなくなる。あれだけの人出がありながら、通りは意外なほどきれいだ。公民館の中に朝まで話しこんでる人が数人いたが、家の中の明かりも消えている。いつもの日常が戻って来たかのような静けさが、街を包む。

(終わり)


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