1. [金沢市]

  2. [金沢市の歴史について]
    ・金沢市の歴史
    ・加賀百万石の城下町
    ・近代工業と伝統産業
    ・文教・軍事都市の顔も
    ・交通網の整備と拡充
    ・国際的文化産業都市づくり

  3. [「日本の音風景100選」に選ばれた金沢の音風景]
    ・寺町寺院群の鐘の音
    ・本多の森の蝉しぐれ

[金沢市]
県のほぼ中心部に位置する県庁所在地。北西部が日本海に臨む北陸地方の中心都市。1889年(明治22)4月1日市制施行。1954年(昭和29)犀川、内川、安原、額、湯涌谷の5村、56年押野村、57年浅川村、62年森本町をそれぞれ編入。1996年(平成8)4月1日中核市に移行。

面積:467.8平方km
人口:45万3977人(1995年10月国勢調査)
気象:平均気温14.1℃、快晴日数19.3日、年間降水量2,592.6mm(全国の測候所中6番目の多雨地域)、積雪日数62.7日
金沢平野の生物暦は、梅の開花3月11日、ソメイヨシノの満開4月8日、アブラゼミの初鳴7月19日、イチョウの黄葉11月12日
(昭和36年〜平成2年の30年間の平均)
地形:砂丘と金沢平野からなる低地、寺町・小立野台に代表される台地(段丘)、標高200m以下の卯辰山などの丘陵地、医王山地・戸室火山地・富樫山地・加賀山地によりなりたっている。
産業:農業(米、野菜、果樹)、工業(機械、金属、食料品、繊維)、商業、サービス業、観光業
林野:市域面積の約60%,この10年間で針葉樹は約500ヘクタール増え、コナラ・アベマキ・カシ・ブナなどの広葉樹は約1,200ヘクタール減少。
農地・耕地:水田は、耕地全体の約82%(3,900ヘクタール)あり、耕地は平成4年から9年までに500ヘクタール近く減少している。
道路:総延長約2,170km、舗装率約99%。この内市道は1,890km。道路全体の87%を占める。
自動車:市内の自動車保有台数は(二輪車含む)は平成9年度末には約296,000台になった。8年度より約3,000台増加している。
公園:市内の公園数は平成10年で423になった。総面積は約422ヘクタール。




[金沢市の歴史]
鎌倉時代末期より守護職富樫氏の支配下にあった加賀の国。
芋掘藤五郎の伝説にもその名を残す「金沢」の地では、室町中期、蓮如らの布教活動によって広まってきた一向宗派が団結し、武力を有する一大勢力までになっていた。蜂起した民衆はついには富樫氏を破り、史上例を見ない一向宗徒による独自の共和国を北陸の地に誕生させた。やがて織田信長のもと、 家臣の佐久間盛政が一揆勢力の本拠地を陥落させ城を築いた。それが尾山城(現在の金沢城跡)である。しかし佐久間氏も信長の死後に頭角を現してきた秀吉に敗北し、その時功績のあった前田氏が新たに加賀能登の大名に任ぜられた。

[加賀百万石の城下町]
金沢市の中心市街地は、犀川、浅野川に挟まれた舌状台地の金沢城を中心に、ほぼ南北に北陸街道、東西に湯涌街道と金石街道が延びる城下町として発展してきた。金沢に入城した利家のもと、金沢は百万石の城下町として道を歩んでいくことになった。前田利家が金沢城に入城以来、領域も拡大された。現在、毎年6月に、利家の入城を記念する百万石まつりが行われ、武者行列、薪能などが繰り広げられる。3代藩主利常は富山、大聖寺に支藩を置き、加賀藩を102万石の我が国最大の大藩とした。
以後、前田家代々の藩主は武力面は控えて、文化・芸術的な充実に財力等を注いだ。これは幕府への恭順を示し、その警戒心を解くための腐心であった。しかし、その姿勢が今の文化都市・金沢を誕生させたと言っても過言ではない。
利常は各地から数多くの職人を集めて細工所をつくり、高度な工芸技術を移植させ、5代藩主綱紀は工芸の町として開花させた。1811年の主な職人は大工313軒、紺屋175軒、桶屋142軒などである。藩政後半には木屋籐右衛門、島崎徳兵衛など新興商人が輩出した。とくに銭屋五兵衛は大坂廻米を独占する廻船問屋として名を馳せたが、藩の権力抗争に巻き込まれて没落した。ほかの豪商も新政府系の海運会社との競争に敗れた。産業が未発達なだけに、商業資本の蓄積はいまだ不十分であった。

[近代工業と伝統産業]
1871年(明治4)の廃藩置県により金沢県となったが、72年に県庁が石川郡美川町へ移転し、郡名をとって石川県と改称した。73年県庁は金沢町に復帰したが、県名はそのままだった。しかし、金沢町の衰退が続いたため、積極的な殖産振興策がとられ、74年金沢製糸会社や石川県勧業場が、77年金沢撚糸会社や金沢銅器会社が設立された。78年津田米次郎が絹力織機の開発を始め、また同業者も競って技術革新に精進したので、絹織物の生産が飛躍的に発展し、羽二重などの生産では日本有数の北陸機業地帯を形成した。同時に、それを支える織機製造が行われ、機械工業が発達し、繊維と鉄工(機械工業)の二大産業の基礎ができた。一方、金沢銅器会社は廃業に追い込まれたが、その高い技術は伝統工芸品に反映され、今日盛んな金沢の伝統産業を支えることとなった。1975年(昭和50)加賀友禅が通商産業大臣指定の伝統的工芸品となり、その後、金沢仏壇、金沢箔、金沢漆器なども追加指定された。

[文教・軍事都市の顔も]
金沢藩は明治になり医学館を開いたが、これがその後、金沢医学専門学校から旧制金沢医科大学へと発展した。(現在の金沢大学医学部) 1887年(明治20)第四高等中学校が開校、のちに第四高等学校となった。明治末には北陸帝国大学設置案が衆議院を通過しながら実現しなかったが、1949年(昭和24)に金沢大学が開学した。現在、金沢市および近郊には大学8校、短大6校の高等教育機関があり、日本海沿岸域では代表的な文教都市となっている。一方、廃藩後の金沢城後は兵部省(陸軍省)所轄となり、名古屋鎮台の分営から歩兵第7連隊の設置に至る。1898年(明治31)には第9師団司令部が置かれ、その下に、歩兵第6旅団司令部もあった。このように、金沢は軍事都市としての性格も濃厚となり、これは第二次世界大戦終了まで続いた。

[交通網の整備と拡充]
1898年に北陸本線が金沢まで開通したのに伴って鉄道網が整備された。1919年(大正8)金沢駅−尾張町−上胡桃町間に市内電車が開通し、その後も小立野、寺町など電車線網が拡充され、27年(昭和2)の彦三町の大火を機に都市計画線の整備が本格化した。しかし中心市街地は坂と橋が多いうえ、「金沢の七曲り」といわれる狭くて曲折した道路は自動車時代の到来とともに慢性的な交通渋滞を引き起こし、1967年(昭和42)市電は廃止された。また、1963年(昭和38)の豪雪(三八豪雪)によって交通・流通機能が麻痺した苦い経験から、70年に重要港湾金沢港が開港することとなった。港と金沢駅を結ぶ市北西部には流通加工拠点として問屋センターや中央卸売市場が設置され、80年には北陸自動車道が名神高速道路に連結した。さらに北陸新幹線小矢部−金沢間の工事も着工(1992)された。

[国際的文化産業都市づくり]
昭和40年代に入ると、基幹産業であった繊維と鉄工の生産は急落し、昭和50年代には第3の産業として先端技術産業が模索された。市西部に県工業試験場や県産業振興センターなどの「地場産業ゾーン」が形成されている。一方、非戦災都市だけに市街地の開発と文化財や観光資源の保存が課題となり、中心部の武蔵ヶ辻や香林坊、金沢駅前などの再開発および「兼六園周辺文化ゾーン」の整備がなされ、中心市街地は面目を一新した。1989(平成元)伝統環境保存条例が制定され、92年には「景観都市宣言」が議決された。さらに広域交通体系の整備や郊外地の居住環境づくりを総合して、100万都市圏構想に取り組むとともに、国際コンベンション(会議)都市をも模索している。観光地としては兼六園、金沢城跡、成巽閣、長町武家屋敷跡、大乗寺、伏見寺、妙立寺(忍者寺)、尾山神社、尾崎神社、前田家墓所、石川近代文学館、石川県立美術館、石川県立歴史博物館、金沢市立安江金箔工芸館、玉泉園、卯辰山公園、江戸村、湯涌温泉、深谷温泉などがある。




寺町寺院群の鐘の音

寺町寺院群は、加賀百万石の城下町金沢に流れる犀川の中流左岸に接する位置にある。その名のとおり70余りの寺院がつづき、古いたたずまいを残す、静かな町並みである。
このあたりでは、明け方と夕方に、どこからともなく聞こえてくる鐘が日々の時を告げている。朝方は家の中で、夕方は街の中で、鐘の音に耳をかたむけていると、古都「金沢」の落ち着きのある風情がそこはかとなく漂ってくる。
しかし、一時は撞き手が少なくなって寺町寺院群から鐘の音が消えかかっていたという。そんななか、撞き手の少ない寺に代わって地元住民による鐘音愛好会によって鐘を撞く活動も増えている。

  • よく聞ける時期:寺独自で鐘を撞いている寺院では、毎朝5時。鐘音愛好会の人たちが撞いている寺院では、毎週土曜日の夕方6時

  • よく聞けるところ:南大通り、寺町通り。とくに裏通りでは、交通騒音も少なく、よく聞こえる。



    本多の森の蝉しぐれ

    ヒグラシは、沖縄を除く日本全土に分布し、東京以北では平地に、関東以西では山地のスギ林などの湿った林に生息している。
     金沢では、山地、平地ともに生息しているが、ここ「本多の森」は、市街の中心であるにもかかわらず、河岸段丘なので、古くから比較的自然が保たれ、タブ・スダジイなどの木々が茂る。ここの森では、毎年7月上旬から8月まで、ヒグラシの鳴き声を存分に聴くことができる。
    一日のうちでは、おもに朝夕に鳴くため、通勤・通学の時間帯と重なって、道ゆく市民の人々の耳に親しまれている。熱い夏の朝夕、市街地に一服の清涼感をかもし出している。

  • よく聞ける時期:7月上旬から8月までの朝と夕方

  • よく聞けるところ:広坂から嫁坂までのタブ・スダジイの林周辺。とくに広坂は、地元の人々に親しまれている。



    参考資料
    1いいねっと金沢:http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/
    2いいね金沢:http://www.nsknet.or.jp/kanazawa-kankou/


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